日本の労働生産性が低い理由

日本生産性本部が発表した労働生産性の国際比較で、OECD加盟国38カ国中日本は27位で、順位は1970年以来最低だったということです。

時間当たりや一人当たりの順位は27~29位とほぼ同じですが、製造業だけ見ると18位まで順位をあげます。製造業の衰退が叫ばれていますが、まだ製造業の方が他の産業よりマシということでしょうか。

ただし製造業のランキングは2000年はOECDでトップだったそうですから、かなり順位を下げているのは確かです。

よく新聞などで日本の労働生産性が低い原因を書いた記事がありますが、少子化や晩婚化のような一般的な社会問題と結びつけて論じられることが多いようです。確かにそれらも生産性を下げている一因かもしれません。

しかし、長年日本の企業にいて感じるのは、そもそも日本の企業の誰も(経営者も労働者も)労働生産性を上げようと思っていないのです。

企業の業績は、売上であったり利益であったり株価であったり、会社四季報に羅列されている数値を見れば分かりますが、それらは株で儲けようとする人たちが使う指標です。

株が上がるか下がるかを判断するための指標は必要ですが、企業を従業員と社会のために成長させていくために使える指標ではありません。少なくとも数十年単位で成長する企業かどうかは分かりません。

それ故に、株価や短期的な利益にしか眼中にない経営者は労働生産性には目もくれず、労働者をこき使う方向に進んだ結果、労働生産性が低いまま半世紀が過ぎてしまったのではないかと思います。

無駄な会議、無駄な資料、忖度の限りを尽くした根回し、日本の古来からの悪習慣の塊です。企業はまだマシで、国や地方の機関の労働生産性はないに等しい(何も価値を創出していない)かもしれません。

創業者が経営する企業の業績が良いと言われます。短期的な株価を上げることより、企業の存続や社会貢献に対する姿勢が違うように思います。

日本の経営者がお金や地位や名誉に目がくらんでしまったのが、労働生産性が上がらない大きな理由の一つだと思います。

銀行と生体認証

最近、銀行のATMでキャッシュカードの生体認証を廃止するというニュースがありました。

ATMで現金を下ろしたり振込をする際に、暗証番号以外に指紋や静脈パターンによる生体認証が必要なICカードがありましたが、今後これらの生体認証を廃止していくそうです。

世の中はセキュリティがますます厳しく管理されていき、あらゆるログインには二重認証が当たり前のように要求されるようになりました。

ところが最もセキュリティに厳格と思われてきた銀行が、時代に逆行して生体認証を止めるというのですから、よほど止める合理的な理由があるのでしょう。今後のあらゆる認証システムに大きく影響を与える変化かもしれません。

そもそもキャッシュカードの生体認証は30年ぐらい歴史がありますが、いまだに統一した手法が確立されておらず、各社各様の取り組みでばらばらでした。おそらくどの方法も決定的な利点も欠点もなかったのでしょう。

確かに手の指紋や静脈での認証は、本人でもなかなかパスしないことも多く、使い勝手が決して良いとは言えません。

何らかの改善は必要でしょうが、一気に廃止してしまうとはいささか性急かとも思うのですが、どんどん有人銀行店舗が閉鎖されて生体認証の登録を行う窓口を維持できないと言うのが、実は銀行の本音だったりするかもしれません。

窓口を維持するコストほどは、生体認証の効果がなかったのか?

生体認証の廃止によってキャッシュカードの被害が増えたとしても、保険か何かで補填するほうが窓口維持のコストより安いという判斷でしょうか。

近所のATMでは係の人が常に無人店舗のATMにいて、オレオレ詐欺の類の被害を防ぐべく啓蒙のティッシュペーパーを配布したり、声がけをして犯罪を未然に防ぐために努力をされています。

オレオレ詐欺には生体認証は効果ありませんから、本人がどうかを確認するだけでなく、本人のATMを使う意思を確認できるような生体+意思認証が今後必要になってくるのかもしれません。

ヘルメット義務化に向けて

自転車運転時のヘルメットの着用を2023年春から義務化するとのこと。

ただし当初は罰則はなし。条例によってすでに義務化されているところもあるようですが、全国的に統一された方が浸透しやすいかもしれません。

原付きには車体にヘルメットを納める場所が確保されていることが多いですが、自転車は今のところそのようなデザインにはなっていないので、前かごに固定する方法やフレームにロックするような機能が登場して欲しいところです。

自転車用のヘルメットは、一般的に発泡スチロールのクッションをプラスチックのシェルで覆ったものが多いです。スポーツバイク用のものは通気が重要ですが、一般の街乗り用としてはそれよりも簡易に装着できて、持ち運びにかさばらないものが良いでしょう。

ついでにサンバイザーやちょっとした雨よけなどが装備していると、装着の面倒さより利便性が優って利用促進には良いかもしれません。

ぜひとも、ヘルメットメーカーには街乗り用に特化した使いやすいヘルメットを販売してほしいものです。

ただ、ヘルメットで頭を衝撃から守ることは大切ですが、それだけでは事故は減りません。

特に自転車の右側通行と歩道上の無謀運転は、ヘルメットとは別の対策が必要です。

少なくともヘルメット装着の義務化によって、安全運転を心がけるきっかけになることを期待したいものです。

年賀状の衰退

年末になり、そろそろ年賀状の用意をしなければならないと思い、まずは前回お送りした方々の住所録を整理しようとして困ったことに気づきました。

郵便局が数年来提供してきた「はがきデザインキット」が使えない!

ダウンロードしたパソコンアプリですから前回と同じように使えそうなものですが、ちゃんと時限爆弾が仕掛けられていて、今は既存の住所録をCSVファイルに書き出すことしかできなくなっています。

そういえば、年末の定番風景だった郵便局前の年賀状販売コーナーが最近見かけなくなったと思っていましたが、ついに郵便局も年賀状の拡販をあきらめたのでしょう。

「はがきデザインキット」の最新版も確かにリリースはされているようですが、宛名書き機能はなく、通信面のデザインを選択することしかできません。

デザインだけならはがきサイズに印刷できる方法さえあればよいわけで、面倒な宛名書きが自動的にできるところに年賀状アプリの存在価値があったのです。

以前は本屋の店頭に年賀状のデザイン集が積み上げられていましたが、そもそも最近は本屋にすら行ったことがないような気がします。

とりあえずキヤノンのサイトから気に入ったデザインをダウンロードしたところ、すんなり今年のデザインが決定して、一気に印刷したらあとは宛名書きを残すのみ。

ワープロなどで住所録から印刷する設定の手間と手書きの手間を天秤にかけると、おそらく手書きの方が楽そうです。枚数も減ってきていますから、今年は手書き宛名でいきましょう。

郵便局の年賀はがきのバリエーションも、以前のように薄い色付きとかがなくなり、切手面のデザインの違いとインクジェット紙かどうかの違いぐらいしかなくなりました。

ネットでは年賀状じまいのマナー的な記事が増えてきましたし、コロナ禍で日常の生活が変わってきているついでに、年賀状の習慣も数年後には廃れてしまうのかもしれません。

これもまた進歩と言うのでしょうか?

IoTって役に立つの?

昨日、とある有名な教授の講演を拝聴いたしました。

20年間に渡る研究の全体像の説明だったので、具体的な例がほとんど示されていなかったためでしょう、私のような門外漢はその研究の素晴らしさや、将来到達するであろう夢の部分を想像することはできませんでした。

IoTという概念が日常の会話の中に出てきたのは、提唱されてたか10年ほど経った2000年前後でしょうか? 

その頃は半導体関係の仕事をしていましたから、IoT社会を実現するためにはデバイスが進化しなければならないといった目先のことにとらわれていて、IoTが目指す社会の意義が何であるかや、それがどれほど素晴らしいのかを考えることもありませんでした

最近になって目指す方向性としてSociety 5.0が叫ばれてきましたが、如何にも政府お抱えの社会学者が後付で考え出した感があります。

また実際に世間を騒がして話題になっているのは健康保険証のマイナンバーカード化ですから、Society 5.0の正体はこれなのかとがっかりしてしまいます。

過去を振り返ってみれば、情報産業というのは例えば銀行オンラインや切符の予約システムなどから始まり、その後CAD/CAMなどの生産自動化が続きました。

21世紀になってインターネットによって飛躍的に身近な存在になりましたが、しかし依然流通や金融を自動化するためのツールでしか過ぎませんでした。

すなわち情報は産業として独立していたわけではなく、銀行、証券、流通、製造などの産業の補助的ツールとしての位置づけだったわけです。

「そろそろ情報も産業としてお金を稼ぐようにしなきゃあかん!」と誰かが言ったのでしょう、情報産業として単独で儲かることを考えた結果がSociety 5.0にような気がします。

つまり、誰も頼みもしないことをやる。よくある先走り、余計なお世話というやつです。

マイナンバーカードがその代表と言えるかもしれません。

必要性や利便性から出た発想ではなく、意味があるか必要化を度外視したところからひねり出して、後付で必要性を作り出すやり方です。

これまでそれがうまく行った試しがあるでしょうか?(あったかもしれません。)

話は元に戻りまして、教授の講演を聞いて何かしっくりこなかったのは、目的や意義が私には見いだせなかったからでしょう。

科学や商売の天才の話は、凡人には理解できないものです。(凡人は私!)