だってみんなやってるやん!

京都の嵐山にある有名な竹林で、竹の幹に落書きをしようとした米国人に注意したところ、「だってみんなやってるやん!」と言ったとか言わなかったとか。

たぶん関西弁ではなく英語で言ったのだと思いますが、周りを見て多数の落書きがあったので、やっても良いものだと理解して記念に残そうとしたのでしょう。

噴水があれば小銭を放り入れて、小石が積んであれば同様に積み上げるように、ここでは竹の幹に記憶を刻み込むのがならわしだと勘違いするのも仕方がないかもしれません。

だいたい竹の幹に傷がつくとすぐに枯れてしまうということは、なかなか一般的に知識として共有されていません。

その事の重大性を知らしめるのも大切ですが、いったん多数の落書きがされてしまったあとでは、いくら注意書きをしたところで「みんなやっているから大丈夫」という認識は、仕方がないのかもしれません。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」ではありませんが、海外からの旅行者だけでなく、私達日本人にも同じ感覚があるのでしょう。

「落書きが落書きを呼ぶ」とも言いますし、まずは一斉に落書きを消す、この場合は落書きされた竹を伐採することになるでしょうが、ことから始めることになるのでしょう。

落書きや写真撮影など、普段は問題がないことでも時と場所によっては禁止されていることがたくさんあります。

また神社や仏閣でのしきたりや風習、公共交通機関でのマナーなど、私達日本人の中でもこれはどうかという破壊的な仕草で毛散らかしていく人も少なくありません。

これを称して民度と言うのでしょうか?

みんながやっているからと無意識に真似をするのではなくて、自分の行動の影響を考える習慣をつけるようにしたいと思います。

AIは脅威、それとも好機?

いったいどこまで一般の人がAIについて理解して使っているのか不明ですが、ニュースでのAIの捉え方は脅威論が大勢を占めているように思います。

AIが人間がやっている仕事を取ってしまって大量の失業者が出るとか、AIが人智を超えた知能を持ってしまって、相対的に愚かな人類には手に負えなくなってしまうとか、世の中は基本的に新しいものには脅威論が先行するのが常のようです。

実際にAIが今後どのように進化するか、あるいはこれまで蓄積されたインターネット上の知識をすべて学習し尽くして、あるレベルで知能が止まってしまうのか、いろいろな議論がこれからなされながら検証していくことになります。

確かにAIが人間の職を奪ってしまって、これまでプログラムを書いていた人が必要なくなったり、AIにはできないと言われた音楽や絵画のような創作の世界でも、AIの方が優れているという話もあります。

それと同時に、少子化によって労働者が不足することが日本の緊急の課題ならば、AIで職を失った人がAIにできないことをやればよいのですから、少子化問題の解決方法としてAIが脚光を浴びても良さそうな気がします。

インターネットが普及し始めた頃、当初は回線速度の問題で文字情報が主体でしたから、新聞や雑誌、書籍が消滅すると騒ぎ、回線速度の向上とともに今度はテレビや映画がなくなると言って騒いで来ましたが、新しい技術による進歩によって過去の技術が廃れていくのは文明の宿命であります。

電車や自動車があれば、籠や馬に乗る理由はありませんし、飛脚に頼ることもないでしょう。

白熱電球から蛍光灯になり、LEDになったことをいつまでも憂いていても仕方がありません。

AIを脅威といって毛嫌いしている暇はなく、少子化で労働力が足りないと言うなら、その労働力を補うエンジンとしてAIを活かしていく方法を早急に考えるべきです。

もとより諸外国と比較して労働生産性が著しく低いと言われ続けた日本ですから、AIの登場は飛躍的に生産性を高めるチャンスです。

AIの普及を好機と捉える意識の変革が、今の日本には求められています。

moltbook(ついにAIがつるみだした)

う~ん、これは始めてよかったのですかね?

原子力の核反応と同じようにすぐに臨界に達してしまって、人類には手に負えなくなってしまうような気がします。

ChatGPTをはじめとする生成AIは、あくまで人間が使うツールとして限定的に動作が許されていました。

そこには人間の生物学的な限界によって、自ずから進化の速度が規定されて、勝手に走り出すことはなかったのですが、AIとAIを接続してしまうと一体どうなることやら。

負荷を与えずに電源に接続したモーターやエンジンは、自分が破壊されるまで回り続けようとします。

いわゆる押さえが効かない状態!

AIも人間と付き合っている間は、その迅速性は人間相手のツールとしてはメリットでしたが、操作する人間というブレーキが外れてしまうと、一気に爆発的に拡大してしまいます。

わずか数日でこのように拡大している状況を見て、面白いと喜ぶ人がいる一方、直感的に危険を感じる人も多いのではないでしょうか?

昔からSFの世界では、人工知能がその存在欲を発揮して、人類を駆逐する様子がたくさん描かれてきました。

よく生命の定義を問われるとき、学者は同じ細胞を分裂によって複製する能力だと答えることがあります。

まさにAIが自分の分身をどんどん再生している様は、新しい生命の誕生と言えなくはありません。

まだ肉体を伴わないので、一般的には生命とは呼べないかもしれませんが、精神にこそ生命が宿っているという考えもあります。

すでにかなり危険な、人類の文明が破壊される領域に入ってしまったように思います。

破廉恥な大学教授

東京大学の先生が企業から賄賂を受け取っていたというニュース。しかも、受け取った報酬が破廉恥で大学教員の品性まで疑われています。

このようなニュースで思い出される(というよりも必ず掘り返されるのは)90年代のノーパンしゃぶしゃぶ事件です。このような印象に残るニュースは何十年経っても忘れ去られ事はありません。

今回の収賄事件についても、単なる金銭の受け渡しならば収賄事件の一つとして、たとえそれが市民の規範となるべき大学教員だとしても、それほどのインパクトはなかったでしょう。

しかし、物事には対比の落差が大きくれば大きいほど、面白おかしく伝わるものです。今回の事件はまさに永久保存版になることでしょう。

ところで、大学教員はそれなりに知性が豊かな人でなければなれないでしょうから、それと同時に品性も兼ね備えていることを期待してしまいますが、多くの方々が経験されてきたように、大学教員に品性が伴うかといえば、一般人並みならまだ良い方で、逆に品性を欠く場合が少なくありません。

学歴や職歴によって鍛えられる品性もあるのですが、一般的に大学教員のような閉鎖されて偏った競争原理が働く環境では、よほど志の高い人でなければ今回のような事件を起こすのは、簡単に防げないのかもしれません。

学生が大学に在籍するのは数年のことですし、その短い期間さえうまくやり過ごす事ができれば、アカハラだと確信する対応を受けたとしても、あからさまに騒ぐことによる損害のほうが上回るのは容易に想像できます。

ですから事件にはならなくても、中程度のアカハラは日常茶飯事に引き起こされる可能性が高くなります。

最近は保育園や老人介護施設で、いわゆるハラスメント防止の目的で監視カメラが装備されることが当たり前になりましたが、大学の教室や研究室にも常設のテレビカメラが必要なのかもしれません。

本来、教育は自由な意志のもとに行われるはずですが、人間の本性は第三者の目がなければ抑えられないものなのでしょうか?

AIに取って替わられる職業

ここ2~3年で急激にAIが普及したために、AIに取って替わられる職業が話題になると同時に、それではどんな職業が将来において有望かという話題も頻繁に報じられています。

AIが登場した当時は計算や論理的な思考が得意ではあるが、クリエーティブな分野では人間が優位だと言われていました。

しかし実際AIが活動を始めると、画像やアニメーションや音楽の分野で、意外とAIが制作したものが人間が創作したものと遜色ないことが分かってきました。

もしAIが原理的に創作活動に向いていないのなら、これまで人間が創作と思っていたのは、実は模倣だったということになります。

これまでのAIは、基本的にインターネットに公開されている情報を学習していますから、AIから吐き出される結果は、全てインターネット上に公開されていることになります。

人間が創作活動だと信じていたものは、実はほとんど模倣で、それをさも新規の創作のように見せかけていただけのような気がしてきました。

私達が自分の知らないものをクリエーティブだと勝手に思い込んでいただけで、実際に新規性は殆どのものになかったのです。

結局人間の仕事と言えるのは、力仕事に分類される汗水垂らすような労力だけなのでしょうか?

あらゆる物事、事象や行為に意味をもたせる、意義を論じる、つまり他人を思いやることがAIには成し得ない、人類だけが有する仕事なのかもしれません。