ハイブリッドの怪しさを払拭しよう!

最近になって、電気自動車はかえって環境に良くないという風潮になってきて、EV偏重に傾いていた自動車メーカー各社が方向転換を余儀なくされているそうです。

単に走っている間だけの炭酸ガス排出量で勝負していましたが、、電気を製造する工程や電池を製造・再利用する際のエネルギー消費などを換算すると、到底これまでほど省エネルギー・省資源とは言えないということが明確になったようです。

そんなことは小学生でも気づきますから、明らかに政治的な捻じ曲げがあったのでしょうか?実際にリチウムイオン電池などの再生が困難であることが社会問題化するに至って、このまま後回しにすることができなくなったのでしょう。

原子力発電所の廃炉問題に真剣に取り組むようになるまでにかかった年数に比べれば、まだ気づくのが早かったのかもしれませんが、最初から分かっていて黙っていたのだとしたら確信犯ということになります。

そこで、EVがだめならハイブリッドとなるかと言えば、巨大な電池を使うことについては似たようなものですから、やはり電池の再生についての問題を解決しなければなりませんし、それより本当にハイブリッドはガソリン車より炭酸ガスの排出量が少ないのかという疑問は残ります。

そもそも燃費の測定方法が、明らかにハイブリッドに有利になるように工夫されているのではないでしょうか?

燃費の計算の中に、ガソリンと同じく電池のエネルギー消費量を入れるべきですし、走行パターンにしても電池からできるだけエネルギーを取り出して、ガソリン消費を少なく見せることに注力しているように見えます。

EVと同様にハイブリッドも電池の製造・再生処理も含めて、もう一度社会として継続できるシステムなのかを検討し直す必要があると思います。

インバウンドの変化

コロナ禍も一段落して海外からのインバウンド客への期待が高まっていますが、どうも以前ほど爆買いが話題になることが少なくなってきました。

ドラッグストアやデパートの化粧品売り場もインバウンド客が群がる事がなくなり、観光バスを連ねた団体旅行から個人手配の家族旅行に変化しているそうです。

80年代に日本の農協団体が世界中を駆け巡って始まった日本人の海外旅行ブームは、その後20年ぐらい小規模な団体旅行や家族旅行に移っていきましたが、それに比べるとコロナ禍という節目があったとは言え、インバウンド客の流行の変化は早いように思います。

購買型から体験型へ変化しているということですが、80年代のように情報が書籍や雑誌しかなかった時代なら流行に変化が起きるのに時間がかかったものですが、インターネット時代は最新情報が溢れていますから、流行もあっという間にやってきては過ぎ去って行くのでしょう。

ただ、今は珍しいから体験したいと思っても、本来その人が夢焦がれていたものではない限り、やはりインターネットの情報に釣られて体験型旅行に来ているだけの可能性もありますから、本当にインバウンド旅行者が体験型を欲しているのかどうかは、時間をかけて見定めないと行けないのかもしれません。

日本の地方にインバウンド客が押しかけて来るといって、交通機関の整備に予算を投じたり新規にホテルを建設するのは、もう少し動向を伺ってからの方がよさそうです。

まあ、海外の方が日本の地方の景色や文化、工芸などに希少価値があると教えてくれたわけですから、私達もそれらの価値を再認識して、インバウンド客の誘致のためではなく、守っていかなければならない日本の優れたものを再認識して大切にしていきたいものです。

エビデンスとポシビリティ

よく医学の分野でエビデンスがあるとかないとかが話題になることがあります。

たくさんのサンプルの結果を集めて、統計的に処理を行って科学的根拠があると判断するわけです。

しかし一方、昔から「可能性が否定できない」という曖昧な表現も使われ続けています。

で、大概はエビデンスがあると言われればそちらを信用したくなるわけですが、ではエビデンスがあるしっかりした根拠があるものと、可能性があるという根拠のないもののどちらが信用できるでしょうか?

そもそも、誰もが認めることなら議論するまでもなく自明ですから、エビデンスが必要になる時点で確実な結論などないことが分かります。すなわち可能性の範疇の話になってしまうわけです。

例えばある薬品の効用が、研究によって90%の人に効果が立証されたとしても、その薬を飲む本人が90%に該当するのか10%に該当するのかはやってみないと判らないわけで、結果として効かなかったとしたら「私は10%の方だったんだ!」と納得するしかありません。

結果が不成功だった後は、エビデンスがあろうがなかろうが自分の結果が全てであり、予想がいかに高い確率をエビデンスが証明していても、結果を覆すことはできません。

ですからエビデンスは学術的に可能性を保障するだけで、判断する上での参考にはなっても実施した結果にはなんの効力もないのです。

このことは当たり前ではありますが、エビデンスは研究としての単なる作法の一つに過ぎないということになります。

学術論文なら作法として必要だとしても、日常の業務や生活で「エビデンスがないからだ駄目だ!」などという輩には、まず「エビデンスがあっても可能性は変わらない。まずやってから結果で判断しよう!」と言いたいものです。

夏休みの課題の所有権

インフォシークニュースに産経ニュースの出典として「夏休みの課題は誰のもの?」という記事が掲載されています。

兵庫県の公立中学校での課題であった夏休みの自由研究で、生徒から提出された作品の返還請求に対して学校側が紛失したため、その作品の所有権を争った裁判が一審二審と右往左往しているそうです。

右往左往というのは、一審の地裁では生徒の所有権が認められたものの、二審の高裁では学校側に所有権があるとなって、現在は最高裁で争われているということです。

これほど基本的と思われる生徒が制作した作品の所有権に、裁判所の判断があっちやこっちやと判断しあぐねている様子は滑稽であります。

まあないことでしょうが、その生徒の作品が実はとても価値が高いものになったとしたら、地裁判決の2万円の損害賠償どころの話ではありません。

よく似た話としては、青色ダイオードで有名になった企業における発明・特許の報酬問題がありますが、最近では一定の報酬を社員に与えるだけで、特許そのものの所有権は企業に属するというのが一般的になったようです。

特許の場合は、それを得るための企業側の費用や援助が相応に考慮されるでしょうし、特許申請の折に事前に社員と企業が契約を結ぶことが習慣になっていますが、学校の個人作品の価値が重要視されなかったこともあって、作品の所有権を議論することもなかったのでしょう。

ただ中学生の作品といっても、将来はどんな価値を持つか分かりません。学校教育における所有権の根本的な考え方が、今回の最高裁の判決で明らかになるのを待つことにいたしましょう。

マルハラ

最近の特に若い女性の間で、LINEなどのメッセージの最後に「。」が付いた返事をもらうと、相手が怒っているような印象を受けるらしいです。

昔のCMで、会話の最後に「マル」と言って締めくくるものがありました。そのときは別に特別な意味があったわけではなく、少し冗談交じりに「これで会話はおしまい」みたいなニュアンスだったように思います。

逆に文章ならば、丸がない方が間が抜けている用に感じることがあり、最後までしっかり表現するという意味では丁寧なように思うのですが、最近のチャット文化では、文章ならあって当然のものが威圧感を醸し出すのかもしれません。

確かに文章で書かれたものをそのまま会話で話すとしたら、多少は堅苦しくなるでしょうし、会話でも丁寧語とタメ口では、丁寧語の方に威圧感を感じるかもしれません。

しかしもっと気になるのは、最近は業務でLINEを使って社内伝達をしているのかということです。

友達同士のたわいない会話ならまだしも、企業機密も含まれるであろう業務伝達事項に、LINEチャットを使うということの方が驚きです。

ですから、そもそも堅苦しいはずの社内業務連絡に、チャットを使っていることにこそ問題があります。業務伝達が堅苦しくなるのは当たり前で、友達との楽しい会話と同じツールを使っていること自体が問題をはらんでいます。

最後に「マル」があってハラスメントを感じるのは、気楽に使えるLINEの問題であって、その違和感を何でもハラスメント扱いするのはちょっと安易ではなかろうかと思います。

そのうちLINEから大量に機密情報が漏れたら、自然と業務では使わなくなるでしょう。

「マル」を無意識に付ける人も、付けられてハラスメントと悩む人も、もう少しの辛抱かもしれません。