AI閣僚にAI俳優

またAIの話になります。

AI閣僚やAI俳優と聞くとなんだか味気がないと感じる人も多いでしょう。なんせまだ実績がありませんから、その良さを判断する材料がありません。

1年か2年ぐらいの試行期間は必要だと思いますが、AIが代わりになったときのメリットとデメリットが列挙されるようになると、その評判がまた新たな評判を読んで、人気俳優が一流の仲間入するときと同じ様に、世間のAIに対する定評が近いうちに形作られるかもしれません。

政治家にしても芸能人にしても人間には良いところと悪いところがありますから、これまでも散々人間の汚いところや自分勝手なところを露呈して失脚してきた有名人は、枚挙にいとまがありません。

自動運転でもそうですが、AIは人間の平均値を狙っても評価されず、最高のレベルの人間と同等であることが目標となります。

多少人間の仕事の代わりができるようになったとしても、常にあるレベル以上の人間を上回らなければなりませんから、技術的に難しいことであるのは確かでしょう。

しかし、一旦優秀な人間のレベルに達してしまえば、優秀以下の人間には用がなくなってしまいます。これは恐ろしいことです。

特定の技能だけがAIに置き換わるだけなら良いですが、仕事で使う人間の能力にはそれほどバリエーションがあるわけではありません。

AIに置き換えられる職業をリストアップするより、AIがでは絶対に置き換えられない職業を選ぶ方が簡単かもしれません。

人々がまだAIの全部の可能性に気づいていないうちに、AIでに絶対できないスキルを獲得しておく必要があるかもしれません。

AIの文章力

最近、時間に余裕があるときは、仕事でメールを出すときにAIで添削してから送信するようにしています。

大した量でもないメールでも、数か所の誤字や表現の曖昧さを指摘されます。私がそれだけ普段、いい加減な文章を書いているということなのでしょう。(反省!)

一旦書いてしまうと思い込みがあるのでしょう、読み返してみても欠陥に気づくことはほとんどありません。AIでに指摘されてから読み返すと、確かにおっしゃるとおりですと、修正することが多々あります。

昔、青春文庫で過去の名作を読んでいたとき、太宰治とか芥川竜之介の文章の見事さに感心したことがありました。

どこから見ても欠点のない日本語で、さらにその中に文章の旨味と言いましょうか、独特の言い回しやニュアンスが光っていて、作家はすごい才能がないとなれないと惚れ惚れしながら読みふけったことがあります。

新聞や雑誌の原稿の校正などにもAIは最適なのでしょう。また簡潔にまとめたり、少し冗長にしたり、はたまた方言を使ったり、AIでは変幻自在に日本語を駆使して文章を破綻なく変換してくれます。

ただ、ある文章を入力して、「もっと面白くして」とか「ジョークを付け加えて」などというリクエストをしても、おもしろくない文章が返ってくることが多いです。

指示の仕方に問題があるのかもしれませんが、論理的に破綻がない文章を作るより、面白い文章を作るほうが難しいのかもしれません。

確かに面白さというのは普遍的ではなく、受け取る人や環境、また時代によって大きく変化します。またブラックジョーク的なものは、過去では許されても今はハラスメントになってしまうことも多いかもしれません。

そう考えると、AIが一から文章作品を創造するためには、もう一歩の進化が必要なのでしょう。

しかし、あまりAIが創造的になってしまうと、人間が面白いと感じる面白さを飛び越えてAIにしか分からないジョークを作り出して、人間の文化を超越した別の世界を築く可能性があるかもしれません。(あ~恐ろしい!)

AI社長の可能性

どこかの国で賄賂が蔓延っているのを、AIを閣僚として採用して是正しようとする試みが報道されましたが、それと同時に進行しているのが企業の社長業としてのAIをの採用があります。

政治家も社長も権力を駆使して統治する点においては、ほとんど同じ業種と言えましょう。AI閣僚が成り立つのなら、AI閣僚が社長も十分機能しそうですので、これらの試みが今後ののように進展していくかが見ものです。

これまでは従業員の仕事を奪おうとしてAIの採用を進めてきましたが、社長の仕事まで奪われるとは予想をしていなかったのかもしれません。

しかし、社長や閣僚は権威を無駄にあるいは私的に使用する誘惑に駆られますから、冷静なAIが一番適している分野だったのかもしれません。

AIにもいろいろな問題が指摘されていて、たまに勘違いをする程度なら些細なことで済ませられますが、社長や閣僚の判断ともなると深刻な問題を引き起こすこともあるでしょう。

自動運転でも話題になっていますが、AIが操縦する自動車と人間が操縦する自動車のどちらが確率的に安全な運転ができるのかという比較なら、いつかの時点でAIが平均的な人間に勝るような気がしますが、

しかし、人間の能力にはばらつきがありますから、なかなか素直にAIに対して敗北を認める経営者や政治家は出てこないだろうと思います。

最近は将棋の中継でAIによる形勢判断が表示されますが、その数値が正しいかどうかが人間には簡単に判断できないことが多いです。プロの棋士でも読み切れない手を読んでいるとしたら、政治や経営判断でも人間以上の結果を残すことが可能でしょう。

しかし、物事はやってみないと分からないことが多いですから、AIとが出した判断が正しかったかどうかは明確には判りません。AIと権力者の間で覇権争いが起こるかもしれません。

人類はAIの良いとこどりをして、うまく共生することができるでしょうか

世界は良識でできている

「良識って何?」と聞かれたら答えに窮しますが、あまり深い意味はありません。

「常識」でも「善意」でも良いのですが、それなら「非常識」や「悪意」と比較されそうなので、とりあえず今回は良識と言っておきます。

最近日本に限らずとんでもないことを言い出す人が目立つようになっていて、特に目立つのが政治の世界です。

某大統領とか某知事とか某市長と言ったほうが分かりやすいかもしれません。

以前なら恥ずかしくて言えないような言動を、堂々と当然のことのように言い切ってしまう人が目立っています。

それだけ目立つ人が目立つことを言うから目立つのですが、ある程度の権力を持つ立場になると、そう簡単に対抗できなくなってしまって、これまでの世界は良識で保っていたことを知らされるわけです。

これは何も政治家だけの話ではなくて、普通に街なかを歩いている人や通勤電車の乗客にも似たような行動を起こす人がいるようです。

昔なら日本では争いを出来るだけ避ける傾向がありましたから、それほど問題にならなかっただけかもしれませんが、最近は我慢するより争いで論破すればよいという風潮があるのか、法律や裁判で解決しようとすることが増えたように思います。

ところが裁判は決して良識ある「遠山の金さん」が取り仕切るわけではなくて、あくまで法律に準じて判断される訳です。

裁判は裁判官や裁判員がじっくり時間をかけて審議しますから、正しい結論が導かれることを期待してしまいますが、それはあくまで法律が完璧だった場合に可能になるわけです。

法律は国会で作られるわけですから、ご存知のとおりそれ程真剣に法律を作っている訳ではありません。

法律の抜け穴というように、昔から脱税や詐欺を働く輩は法のスキマを突いては悪事を働いていたのですが、現代は良識の欠如した政治家に法律のスキマを利用されるようになってきたということでしょう。

人類はAIに頼らなければ、もはや良識を取り戻すことができないのかもしれません。

“1150-550=500″はアバウトすぎる!

All Aboutニュースに「そんな裏技のような計算を!?」とにかく硬貨を減らしたい日本人の「お釣り文化」に外国人の反応は?」という記事が掲載されています。

日本人のお釣りの計算が速いことに、外国人が驚いているというお話です。

例えば、550円の支払いに際して客側が1150円を差し出した目的を店員は瞬時に察知し、きっちり500円玉をお釣りとして渡します。この一瞬のやりとりに、日本人の計算力が垣間見えます。 

若干の違和感が、、、

本当に1150円を出したとしたら、お釣りは600円でなければ客が損をします。(All Aboutと断っているのですから、アバウトなのでしょう。)

少し前なら、日本人は小学校で散々計算ドリルで鍛えられていると日本人固有の自己満足で終わっていた事でしょう。

しかし、最近はどこでも支払いは機械が担当することが多いですから、このような人手による対応はあまり見なくなってしまいました。

そもそも外国ではお釣りの小銭を減らしたいがために、550円の商品に1000円札以外のお金を差し出すような面倒なことはしません。

ですから、550円に対して1050円を出したとしても、50円は余分だから最初に突き返してから、商品金額にお釣りを足していきながら合計が1000円になるまで足し算を続けます。

そうです外国人、特にUSの人は足し算しかできません。

こうなってくると、合理的なのがどちらなのかという議論が重要で、計算が得意かどいうかではないような気がしてきます。

日本人だけが計算が得意だと自慢気に語っていますが、USの人たちからして見れば、日本人は「合理的でないアホなのか?」と思っているのかもしれません。

今や世界中の人の考えがSNSを通じて駆け巡っていますから、この議論についてそのうち結論が出るのかもしれません。

それまではあまり日本人は頭が良いと早合点しない方が良いのかもしれません。