誰かの犠牲の上にできた料理を食べたいか?

「天才料理人なら従業員を殴ってもいいか?」

この問いに対し、表立って「殴っても良い」と答える人はいないと思います。しかし、現実にはそうした行為に及んでいる人は意外とたくさんいるのでしょう。

先日、超有名レストランの著名なシェフが、店の従業員を調理器具で突き刺したり、壁に押し倒したりと暴力を振るった罪で起訴されたというニュースがありました。

こうした話は、天才ともてはやされた人材には付き物のエピソードのようです。それが大学教授であったり、テレビ局の有名プロデューサーだったり、企業の創業者だったり……。

世間にもてはやされた人に必ず訪れる、「誘惑」に似たものなのかもしれません。

幼少の頃に『裸の王様』を散々読み聞かせられたとしても、いざ自分がその立場になってしまうと、平気で裸になってしまうのでしょうか?

これを抑える術が「人格」と言われていますが、人格は勉強したからといって身に付くものでもなさそうです。

たいがいの大物、偉人と言われる人には必ず裏の顔があって、表が立派なだけに裏の顔の下賤さは格別です。

「人間というのは、表と裏を足したら、ほぼ全員同じ平均値になる」のかも知れません。

日本に限らず、世界中で暴力の根絶を目指しています。ですから、これまでのように誰かの犠牲を払って素晴らしいものを提供したとしても、もはや評価されないばかりか、犯罪者のレッテルを貼られるだけです。

最近になって、平均的に優秀な国民を生み出してきた日本の教育制度が見直され、一部の非凡な人材を育てることにも注目が集まっています。

しかし、それと同時に「人格形成」も重要であるというでしょうか?

20代と50代の賃上げ率の違い

ニュースで20代は4〜5%の賃上げ率であるが、50代は1%台に留まっていて世代間の差が出ていると伝えています。

近年の人手不足で新入社員の獲得が困難である上に転職がしやすくなっているため、新入社員の獲得と引き留めには相対的に高い給与が必須ということなのでしょう。

一方50代の従業員については、転職がしにくい世代であるため企業としては引き止める必要がない上に、出来れば早期退職に応じてもらいたいところですから、給与を上げる必要なんてないわけです。

思い起こせば日本がバブルで経済が絶好調だった頃も、やはり新卒者を予定数集めるのが困難になったため、新卒給与が急激に高くなったことがありました。

しかし、当時は日本中の景気が良かったため、その他の年代の給与も同時に嵩上げされたため、世代間の格差が問題になることはありませんでした。

しかし、今は表向き企業業績が良いとは言えず、人件費はコストとばかり黒字であっても削りまくることが経営の定石になっています。

ただ、AIによる業務の自動化が本格的に日本でも取り沙汰されるようになると、業務を知らない新入社員を雇うより、社内でのAIの応用を提案できる会社の仕組みに精通した人員の確保に苦労するようになるかも知れません。

時代の流れに任せるしかない人生で少しでも幸せを感じることが、如何に大切でしかし容易ではないことをしみじみ感じます。

神戸市室内管弦楽団の存続

朝日新聞に、神戸市室内管弦楽団への神戸市の補助金が打ち切られるというニュースが記載されています。

文化という名をかざすことでこれまで採算度外視で続けてこられた事業が、税金の使いみちとして認められにくくなってきたということでしょうか? 同様の事態がこれからの日本では、日常茶飯事になるかもしれません。

来年度の予算は組まれていて8500万円が支払われるそうですが、年間5回の定期演奏会の入場者が毎回550人程度ということで、収入の7割が補助金で賄われているということです。

団員が26人ということですから、補助金を人数で割ると団員1人あたり300万円を超えますから、税金で団員の生活を賄っていると言われても仕方がありません。

あるいは、8500万円の補助金分を年5回の定期演奏会で賄おうとすると、入場者数が同じと仮定しても入場料が3万円を超えますから、それに見合う演奏ができないのならば、税金の垂れ流しと言われても仕方がないでしょう。

日本には文化を嗜む余裕がなくなってきているのです、

そのくせ老朽化した文化ホールの建て替えを、350億円掛けて行うそうですから、箱物だけにお金をかける、昭和時代の土建屋国家丸出しの行政は相変わらずです。

いつまでも電話とファックスに頼る行政ですから、昭和思考は拭いきれないのでしょうか?

破廉恥な大学教授

東京大学の先生が企業から賄賂を受け取っていたというニュース。しかも、受け取った報酬が破廉恥で大学教員の品性まで疑われています。

このようなニュースで思い出される(というよりも必ず掘り返されるのは)90年代のノーパンしゃぶしゃぶ事件です。このような印象に残るニュースは何十年経っても忘れ去られ事はありません。

今回の収賄事件についても、単なる金銭の受け渡しならば収賄事件の一つとして、たとえそれが市民の規範となるべき大学教員だとしても、それほどのインパクトはなかったでしょう。

しかし、物事には対比の落差が大きくれば大きいほど、面白おかしく伝わるものです。今回の事件はまさに永久保存版になることでしょう。

ところで、大学教員はそれなりに知性が豊かな人でなければなれないでしょうから、それと同時に品性も兼ね備えていることを期待してしまいますが、多くの方々が経験されてきたように、大学教員に品性が伴うかといえば、一般人並みならまだ良い方で、逆に品性を欠く場合が少なくありません。

学歴や職歴によって鍛えられる品性もあるのですが、一般的に大学教員のような閉鎖されて偏った競争原理が働く環境では、よほど志の高い人でなければ今回のような事件を起こすのは、簡単に防げないのかもしれません。

学生が大学に在籍するのは数年のことですし、その短い期間さえうまくやり過ごす事ができれば、アカハラだと確信する対応を受けたとしても、あからさまに騒ぐことによる損害のほうが上回るのは容易に想像できます。

ですから事件にはならなくても、中程度のアカハラは日常茶飯事に引き起こされる可能性が高くなります。

最近は保育園や老人介護施設で、いわゆるハラスメント防止の目的で監視カメラが装備されることが当たり前になりましたが、大学の教室や研究室にも常設のテレビカメラが必要なのかもしれません。

本来、教育は自由な意志のもとに行われるはずですが、人間の本性は第三者の目がなければ抑えられないものなのでしょうか?

大学教授は変人か?

昔から大学教授には変人が多いと言われていました。

これは何も統計的に実証されているわけでもなく、そもそも変人の定義もありませんし、時代とともに変人の種類も変わっていきます。

大学教授に限らず、政治化や企業の社長にも変人はいっぱいいるわけですし、別にこれらのトップに立つべき人でなくても、平社員でも新入社員でも、はたまた中学生でも変人と認定される人はたくさんいるでしょう。

話を戻して、大学教授に変人が多いというのはある種定説のようになっておりますが、ただ変人というだけなら問題はないのですが、教授になってしばらくするといわゆる老化が始まる人が多いように思うのです。

教授といえば研究室の長であり、その下に准教授や講師、助教、研究生などを従えてお山の大将になるわけです。

近年アカデミックハラスメントが問題視されることがありますが、お山の大将がいるということは、無法地帯になりやすい環境があるわけです。

ここで問題にしたいのは、大学や研究室を健全化するということではなくて、大学で研究に打ち込んだ結果教授の座を手に入れた人材が、お山の大将で済ませても良いのかということです。

周りをイエスマンで固めて裸の大様になってしまった、かつての大企業の社長の話を誰しも思い浮かべることができるでしょうが、それと同じことがほとんどの日本の大学教授で起こっているのです。

もったいない話です。

海外の大学教授には、先端企業のCTOや社長に引き抜かれて、バリバリに活躍している人がたくさんいます。日本の教授にはそれがないようにもいます。

50歳前後で教授になってしまったら、双六の上がりで、そこから老後が始まっています。

教授の退官年齢は65歳ですが、それを待つことなく企業以上に老害だらけです。

技術立国を再び目指すには、人材を活かす方法を見つけなければなりません。

優秀人材の宝庫である教授陣を、社会に有効活用できないのは日本にとって大きな損失だと思います。