タイパとものぐさは紙一重

最近の流行として「タイパ」を重視する傾向があるらしいですが、パフォーマンスを気にするのは別に最近に限ったことではありません。

価格に対する満足度としてコストパフォーマンスがよく使われますが、それが時間に変わっっただけです。

しかし、時間を気にするということは、現代人は時間が足りないという思いが強いということなのでしょうか?

よくスマートホンを使う時間が1日に平均5時間だとか6時間だとかいう数字が飛び交いますが、かなりの時間をスマートホンに費やしてしまう結果、残りの時間で出来るだけ手っ取り早くことを済ませないといけなくなったのでしょうか?

スマートホンを利用する時間が、実は最もタイパが悪いことになかなか気付けません!

昔の話で、エジソンがあれほどいろいろな発明をしたのは、面倒なことを機械んみやらせようとしたのがきっかけだったということですから、「ものぐさは発明の母」とはよく言ったものです。

日本人の労働生産性が世界最低水準であることが問題視されていますが、今ならスマートホンを利用する時間を1日数時間削るだけで、生産性が飛躍的に向上しそうです。

ところで、これほどタイパを気にする人が暮らす日本で、人がやりたがらない仕事は人手不足で社会の基盤が揺らいでいるというニュースも多くなりました

要するにタイパ良くと言いながら、好きなことしかしなくなっただけなのでしょう。これもインターネットやSNSによる思考の極端化の現れなのかもしれまん。

今はタイパが流行だと言っているだけで済んでいますが、タイパを求めすぎて社会が立ち行かなくならないことを願いたいものです。

法律にまさるマナーと倫理

犯罪や事件があると、なになにと言う法律に違反しているから禁錮刑や罰金が示されるわけです。

なるほど法律に書かれていると、その罪の重さや罰則が誰の目にも明確になりますから、本人が納得するかどうかは別にして、世間的には明文化された法律によって客観的に罪を理解することができるのです。

ところが、法律だけではなかなか全ての人間の所業の良し悪しを判断できないものです。

法律で裁くまでもない些細なことや、法律の前に人間としてやってはいけないことなど、法律でカバーする範疇外の迷惑なことや事件は以外にたくさんあります。

そのような迷惑な行為に対して、やった本人は「法律のどこに書いてあるのか?」などと言って開き直るのですが、法律に書いていないことこそ基本中の基本、それが分からないのなら人間失格ということでしょう。

日本でマナーと言うと、西洋式のテーブルマナーや茶道華道での仕草のように、どちらかと言えば厳密で杓子定規に思えるようなものを思い浮かべますが、基本は他人を思いやる気持ち、自分が同じことをされたらどう感じるかを察することです。

ですから、どうしても日本ではマナーは普通以上の高度な作法と思いがちですが、普段の他人に対する配慮、気遣いが重要なのです。

そもそもマナーや倫理を親や学校から学機会がありません。だから古典の書物を読む必要があるのですが、最近は文学作品のカテゴリーが増えすぎていて、倫理感を養うような作品に出くわすのは至難の業です。

ニュースでは、日本の政治家が倫理観のない事件を頻繁に引き起こし、海外では倫理観は言うに及ばず、明文化した法律さえも無視して暴挙を振る舞う政治家が溢れかえっています。

21世紀が破壊と崩壊の時代だったという歴史を残さないためにも、倫理とマナーの意味を考え直す必要がありそうです。

NISAとiDeCoの選び方

よくニュースでNISAとiDeCoのどちらを選べば良いかとか、NISAやiDeCoをやった方が良いかなどという質問が記事になっています。

まあ、フィナンシャルプランナーなどの専門家の答えをとにかく期待したい気持ちは分からないでもありませんが、NISAかiDeCoにするかはそれほど重要ではなく、その前に貯蓄か投資のどちらをしたいのかということと、もしお金が溜まったとして、そのお金を年金として老後の生活費として使うのか、それまでの年齢で使うのかを先に決めておく必要があります。

いきなりNISAやかiDeCoかという質問を、それなりの専門家にぶつけてしまうと、いいカモが来たとばかりに売りたい金融商品を売りつけられる可能性が高いので注意しましょう。

そもそも投資について知識がある人は、NISAとiDeCoのどちらにするかなどで迷ったりしません。

NISAもiDeCoもそれぞれの投資目的に相応しい商品があるのならば、その利益については無税になるので、許す範囲内で利用しない手はありません。

しかし、その前にそもそも投資とは何か、年金とは何かということをじっくり考える必要があります。NISAとかiDeCoはその後手続き方法として考えればよいのです。

どうも政府や金融関係者は、貯蓄に眠っている国民の金融資産を無理やり投資商品に振り向けようとしすぎです。

年金が足りないからと言って無理な投資をすれば、さらに老後資金の早期の欠乏を来しますから、投資に関する知識や安全策を教えないで、いきなりNISAとiDeCoはお得ですよと宣伝するのは、いかにも胡散臭い金融屋です。

投資にはリスクは付きものです。

そのリスクを背負える人だけが踏み込んでも良い世界だということを、心に留めて置きたいものです。

「三人よれば文殊の知恵」は今は昔

そこら辺にいる3人が寄り合って相談すれば、何か良い知恵が思い浮かぶと言ったのは今は昔。現在は凡人が3人寄ったぐらいでは分からない程社会が複雑化しております。

そもそも今の現代に本当の凡人がいるのかさえ怪しいものであります。

かの国木田独歩が短編小説「非凡なる凡人」で表現したように、世の中には民衆を正しい道に引っ張る偉人や賢人と呼ばれる人は確かにごく少数必要であるけれども、実際社会を中枢となって動かしていくのは真面目な凡人が重要な役割を果たすのだということです。

今現在の周りを見て、国を統治するべき政治家に偉人や賢人は見当たらず、かと言って身の回り凡人がいるかと言えば、凡人というのはあまりにも悲惨な低レベルの国民しか見当たりません。

民衆のレベルを上げるのは大変な努力が必要であるけれども、レベルを下げるのは自然に任せておけばよいので簡単であるというのは正にそのとおりで、知らぬ間に日本も世界樹も無知無教養が当然の権利のように蔓延る惨状であります。

このようになっては三人どころか大勢が集まったところで、ろくな知恵は湧いてきません。だからこそ人工知能に頼らなければならなくなってしまうのです。

しかし、人工知能に任せるということは人間の叡智を放棄することに他ならないわけで、そんなことは誰も期待していないわけです。けれども現実にはその方向に進んでいる。

いま現実に、いま社会で起こっていること、科学技術がどのように影響を与えているのかを、全人類が自分の知能を使って考えるべきときが来ているのです。

新聞ニュースの退化

いつの頃でしょうか? 新聞のニュースの見出しが正しく意味を伝えなくなり始めたのは。

私の記憶では、80年代中頃だったような気がします。ちょうど新聞写植がコンピューター化され始めた頃です。

当時、新聞記事の読み方は、ざっとニュースの見出しだけを眺めて、注意を引いた記事だけじっくり読むことが当たり前のことのように言われていました。

ところがどうもニュースの見出しを見ただけでは、ニュースの内容が正しく読み取れないことが多くなったのです。

それまでなら見出しに興味を持って記事の本文を読み進めても、見出しと意味が違っているようなことはなかったのですが、80年代から見出しと記事が一致しないことが増えてきました。

この傾向は最近になっても変わっていません。わざと意外な見出しを付けて、記事に引き込もうとしているのかと思うほどです。

ニュースの見出し・タイトルは、一瞬でその記事の意味や概要を把握できるようになっているべきだと思うのですが、かなりの確率で記事の意図と違う意味に取れるような見出しになっていることが少なくありません。

どのような意図があってそのような見出しになるのか不明ですが、その頃から新聞の購読が減少していたのと全く関係がないとは言い切れないような気がします。

つまり新聞記事の信憑性に、購読者が疑問を抱き始めたのではないでしょうか?

新聞記事のタイトルが過激で、ぎょっとして記事を読み進めたら、大したことが書かれていないことがよくあります。

週刊誌と同じ手法だといえばそのとおりですが、新聞ならそのような手段を取らずにまともにニュースを伝えて欲しいものです。

インターネットが新聞の購読が減少した主な原因とされていて、それはその通りなのでしょうが、新聞自体の劣化も原因の一つではないかと思います。