アルコール週140gの呪縛

少し前に「アルコール管理アプリ」という投稿で、飲酒量を管理するアプリをスマートフォンにインストールして、毎日の飲酒量を管理(出来ればに話だが)しようという話を書きました。

しばらくは続けていたのですが、いちいち記録することが面倒になり、中途半端なデータが残ったアプリもアンインストールしてしまいました。

結局アプリにデータを記録することだけで安心してしまい、飲酒量を管理するまでには至りませんでした。家計簿に毎日支払いした金額を書き込むだけで、家計を管理していると錯覚するのと同じでしょうか。

さて飲酒量はイギリスのある研究によって、週当たり140gのエチルアルコール量を超えると健康に影響を及ぼし始めると言うことから、1日当り20g以内に抑えると安心だと言われております。

もっともアルコールは1滴でも健康に悪影響が出るという説もありますから、人によって限度の設定は違うかも知れません。

いずれにしても、アルコール摂取量を測るにはエチルアルコールの体積ではなく質量が重要なのですが、ここで疑問が生じます。

例えば、500ml缶のビールがアルコール度数が5%の場合、500ml x 0.05 = 25ml となり、アルコールの比重が0.8(アプリでは0.79で計算していましたが、)ということで、25ml x 0.8g/ml = 20g となります。

つまり、毎日飲むのなら500mlで5%のビールを、週7日飲めば限度を超えないということで、安心してロング缶を毎日飲んでおられる方も多いかと思います。

ただ、小学校の理科で習ったとおり、水とアルコールは混合すると体積が減ります。しかし、いくら(何%)減るかというデータは見かけたことがありません。

「混ぜて体積が減るのなら、もう少し飲んでも構わんか!」と常に多い目になっている方もいるかも知れません。(それは私!)

おそらく、容積というのは液体の温度や撹拌状況によって変わるのでしょうが、大概のアルコールの計算は、全体の容量にアルコール度数をかけたものに、比重の0.8をかけて求めているようです。

正確なアルコール量を計算したいという要望があったのかどうか分かりませんが、最近になってアルコール飲料の度数表示を、容量に対する度数ではなく、アルコール重量で表示する動きがあるようです。

つまり「この缶には何グラムのエチルアルコールが入っています」という表示に変わりつつあるということです。

これなら容量から計算する必要がありませんから、20g以内かどうかをすぐに判断できます。(ただし判断できるうちは、、、)

まあ、結局アルコール度数には誤差が付き物らしいですから、あまり計算方法にこだわってもアルコール量が正確に求まる訳ではありません。

ましてや週140gを超えたら急に病に伏すということでもありませんから、健康に気をつけながら、迷惑にならない程度に楽しく飲酒することが大切だということでしょう。

ところで、サッポロのチューハイにフォーナイン(99.99)と称したものが出たとき、「アルコール度数99.99%だと!」と色めきだったあなた!(これも私です。)

これはアルコール度数ではなくアルコールの純度だということですが、つまりアルコール飲料中のアルコールにはエチルアルコール以外のもの、例えばメチルアルコールなどが含まれているらしく、それらがいわゆる悪酔いの原因になっているとか。

よく醸造酒のワインやビールが悪酔いすると言われますが、アルコール純度が原因だったのかも知れません。

また、エチルアルコールの純度は、95%ぐらいになると特殊な(毒性の強い)薬品の力を借りないとそれ以上純度を上げられないと言われています。

99.99%の純度がどうやって達成できたか? まだまだ疑問が尽きません。

お賽銭と賄賂

この辺りの話ってあまり真剣に語ることが少ないのですね。そこであえて一説。

「苦しい時の神頼み」と申しますが、初詣も含めて成就するかしないかの願い事を、謙虚に神様にお願いすることで幸運に導いていただこうとするのが、日本人の心であります。

もちろん箸にも棒にもかからないような高望みをしても神様はお見通しですから、望みを叶えていただくことはできません。

それなりに努力をして、どっちに転んでもおかしくないぐらい微妙なところで、神様にちょっと背中を押す程度に力添えをして頂く事ができるということなのでしょう。

神様のご加護は大変ありがたいものでありますから、それなりのお礼をしなければなりません。ですから、新年お初詣の際にはお賽銭を、そして願いが運良く叶った折にはお礼参りをしなければならないのはご承知のとおりです。

さて、現実の世界を見渡しますと、コネや賄賂といった犯罪が引きも切らずに蔓延っております。

特にニュースになるのは大物の大金を積んだ案件ばかりですから、世間の批判も強うございますが、日常的には学校や医者の先生へのお歳暮やお中元、会社や政治家の袖の下や賄賂がまかり通っております。

で、お賽銭と賄賂は性格としてはほぼ同じものと思われ、叶うか叶わないか瀬戸際の願いを叶えるための最後の願掛けであるわけです。ここが重要なのですがどちらもお金が絡みます。

片や願いを叶えることが神がかり的な神様と、願いを叶えることが権力越しの権力者とどちらが悪者なのか?

権力によって叶えさせてあげられる権力者は、もらったお金に見合う対価を与えることができますが、神様は実は知らぬ存ぜん、お賽銭に見合う働きが科学的に証明されたことはありません。

望みを叶うために賄賂を渡す者とお賽銭を渡す者は、やっていることはほぼ同じでしょう。

しかし、受け取った者は、望みを叶える権力を持ったものが罰せられ、知らぬ存ぜんの神様は罰せられない。

お金を受け取って何もしない(と思われる)神様が善で、賄賂に見合った権力を振るった権力者が悪。

じっくり考えると、私たちのやっていることは理解しがたい。