世界は良識でできている

「良識って何?」と聞かれたら答えに窮しますが、あまり深い意味はありません。

「常識」でも「善意」でも良いのですが、それなら「非常識」や「悪意」と比較されそうなので、とりあえず今回は良識と言っておきます。

最近日本に限らずとんでもないことを言い出す人が目立つようになっていて、特に目立つのが政治の世界です。

某大統領とか某知事とか某市長と言ったほうが分かりやすいかもしれません。

以前なら恥ずかしくて言えないような言動を、堂々と当然のことのように言い切ってしまう人が目立っています。

それだけ目立つ人が目立つことを言うから目立つのですが、ある程度の権力を持つ立場になると、そう簡単に対抗できなくなってしまって、これまでの世界は良識で保っていたことを知らされるわけです。

これは何も政治家だけの話ではなくて、普通に街なかを歩いている人や通勤電車の乗客にも似たような行動を起こす人がいるようです。

昔なら日本では争いを出来るだけ避ける傾向がありましたから、それほど問題にならなかっただけかもしれませんが、最近は我慢するより争いで論破すればよいという風潮があるのか、法律や裁判で解決しようとすることが増えたように思います。

ところが裁判は決して良識ある「遠山の金さん」が取り仕切るわけではなくて、あくまで法律に準じて判断される訳です。

裁判は裁判官や裁判員がじっくり時間をかけて審議しますから、正しい結論が導かれることを期待してしまいますが、それはあくまで法律が完璧だった場合に可能になるわけです。

法律は国会で作られるわけですから、ご存知のとおりそれ程真剣に法律を作っている訳ではありません。

法律の抜け穴というように、昔から脱税や詐欺を働く輩は法のスキマを突いては悪事を働いていたのですが、現代は良識の欠如した政治家に法律のスキマを利用されるようになってきたということでしょう。

人類はAIに頼らなければ、もはや良識を取り戻すことができないのかもしれません。

“1150-550=500″はアバウトすぎる!

All Aboutニュースに「そんな裏技のような計算を!?」とにかく硬貨を減らしたい日本人の「お釣り文化」に外国人の反応は?」という記事が掲載されています。

日本人のお釣りの計算が速いことに、外国人が驚いているというお話です。

例えば、550円の支払いに際して客側が1150円を差し出した目的を店員は瞬時に察知し、きっちり500円玉をお釣りとして渡します。この一瞬のやりとりに、日本人の計算力が垣間見えます。 

若干の違和感が、、、

本当に1150円を出したとしたら、お釣りは600円でなければ客が損をします。(All Aboutと断っているのですから、アバウトなのでしょう。)

少し前なら、日本人は小学校で散々計算ドリルで鍛えられていると日本人固有の自己満足で終わっていた事でしょう。

しかし、最近はどこでも支払いは機械が担当することが多いですから、このような人手による対応はあまり見なくなってしまいました。

そもそも外国ではお釣りの小銭を減らしたいがために、550円の商品に1000円札以外のお金を差し出すような面倒なことはしません。

ですから、550円に対して1050円を出したとしても、50円は余分だから最初に突き返してから、商品金額にお釣りを足していきながら合計が1000円になるまで足し算を続けます。

そうです外国人、特にUSの人は足し算しかできません。

こうなってくると、合理的なのがどちらなのかという議論が重要で、計算が得意かどいうかではないような気がしてきます。

日本人だけが計算が得意だと自慢気に語っていますが、USの人たちからして見れば、日本人は「合理的でないアホなのか?」と思っているのかもしれません。

今や世界中の人の考えがSNSを通じて駆け巡っていますから、この議論についてそのうち結論が出るのかもしれません。

それまではあまり日本人は頭が良いと早合点しない方が良いのかもしれません。

大阪万博リングの保存運動

2025年大阪万博の会期も残り1ヶ月を切り、最後の駆け込みで入場予約も取れない活況が続いております。

開催まで盛り上がりがまったく欠けていたのが嘘のように、開催後はうなぎのぼりに人気が高まり、パビリオンはいうに及ばず、最初は気持ち悪がられたミャクミャクグッズの売上でさえ急上昇しています。

連日20万人を超える入場者が詰め掛けたおかげで、並ばない万博だったはずが史上最長の行列が逆に名物になってしまいました。

1970年の大阪万博では、一日で最高83万人の入場があり、当時の新聞に徳島県民と同じ人口が狭い会場に溢れたと記載されていました。

今回の会場では20万人を超えてしまうと、人並みが多すぎてどこが行列なのかも分からなくなりますから、会場の規模的には1970年の万博ははるかに大きかったのでしょう。

ところで閉幕が迫ってきたこともあって、万博リングの保存運動が盛んになってきております。

今日の新聞では関西の大学が団結して、できるだけ多くのリング部分を保存することを要望したことを伝えております。

今でもモノレールから太陽の塔の写真を撮る人を見かける事がありますから、シンボルであるリングをできるだけ残そうという運動に理解を示す人も多いのではないでしょうか?

そもそも1970年の万博でも、太陽の塔が突き破った大屋根と日本館は保存される予定でした。

当初から保存予定の鉄鋼館は今でも残っていますが、大屋根と日本館は保存維持の費用が賄いきれなくなって、万博閉幕後数年で撤去が決まったと記憶しております。

今では大屋根のごく一部だけが切り取られてお祭り広場だった場所に置かれていますが、当時の圧倒的な存在感がまったくなくなってしまっていて、単なる標本としての意味しかなくなっているのが残念です。

その大屋根と今回のリングは、その建造物としての持つ意味はほとんど同じでしょう。

未来的な建造物を予感させる大屋根と、木造でSDGsに根ざそうとするリングは、どちらも万博の遺産として相応しいものです。

ただ、鉄でできた大屋根でさえ数年しか維持できなかったわけですから、木造のリングの維持費用が巨額になるいことは目に見えています。

是非、何分の一を保存するという議論をする際には、毎年の維持費用を誰が何の財源で維持するのかを明確に決めて、財源を確保してから結論を出していただきたいものです。

税込か税抜かどっち?

一応政府としては税込表示を推奨しているらしいですが、罰則がなければルールはないのと同じ。今だに世間では税込と税なし表示が半々で入り乱れております。

困ったことに、日本国民は10%や時として8%になる税金を計算するのが苦手であるばかりでなく、未だに税込か税抜かさえ気にしていないと思われます。

消費税の話題に国民が乗ってこないのは、そもそも消費税がどのぐらい国民の負担になっているのかさえ感覚的に理解できていないのが理由でしょう。

本来、消費税が導入される前は贅沢品にはその商品のカテゴリーごとに決められた、物品税と言ういわば贅沢品だけにかけられた税金があった訳です。

その物品税の対して、欧米で考案されたVAT(Value Add Tax)の真似をして、全物品に消費税というありきたりな名前の税金をふっかけた過ちが発端なわけです。

贅沢品だけにかければ良かった税金を、生活必需品、例えば米や野菜や衣服にも同率でかけた安直な政策が愚策でした。

その後、USでは生活必必需品、例えば食品や衣服、履物、生地などからSales Taxを排除していったにもかかわらず、日本では生活必需品にもずっと消費税をかけ続けてきたのです。

はっきり行ってインチキです。昔なら一揆が既に起こっているレベルです。

小売店での価格表示で、税抜と税込表示を両方許している政府は無能というしかないでしょう。

消費税を徴収する資格がありません。

新総理にはその辺りのところを、もう少し改善してもらいたいところです。

欠陥が許される社会

日本の製品が世界を席巻したいた70年代後半から80年代にかけて、日本製の製品の品質が高いだけでなく、製品自体から説明書に至るまで、いっさいの妥協を許しませんでした。

仕様や動作にゆるぎがなかったばかりか、説明書には余すことなくすべて正確に動作や使用方法が記載されていました。

当時、USで売られているUS製はというと、品質が悪いことはいうに及ばず、製品の箱に書かれている機能が説明書に書かれていない、書かれていてもその通りに動作しないことが多々ありました。

要するに製品が完成していないのです。

普通なら出荷前の検査や認証を行う際に何処かで気づくはずですが、そもそもそのようなチェックをやっていなかったのでしょう。

最終検査員はお客様です。検査報告書のことを「苦情」と言います。

企業の経営者も、細かいことは別に厭わず現状の売上の数字を見つめるばかりで、今の製品の欠陥が売上に響くのは自分が経営者をやめてからだということなのでしょう。

そのようなことを繰り返しているうちに、US製というだけで欠陥商品という認識が当たり前になっていったのです。

今の日本製はどうでしょうか? 80年代の日本人気質と言われた完璧な製品からは、かなり遠ざかっているような気がします。

確かに国際分業が進んで正真正銘の日本製は絶滅寸前ですし、かつての日本製の品質を知らない世代も増えてきているのだと思います。

かつては日本品質は完璧主義過ぎて無駄が多いと揶揄されましたが、現在の製品は良くて80%ぐらいの完成度、ほとんどは70%程度ではないでしょうか?

良いものを長く愛用するという風潮は皆無で、適当なものを使い捨てにするのが当然になってしまえば、完璧な製品は必要ないのかもしれません。

USに毒されていると言ってしまっても過言ではありません。

もうすでに遅いような気もしますが、SDGsの一環としてもう一度考えてみるのも必要なのではないでしょうか?