急いては事を仕損じる

USの輸入関税で言った言わないの議論になっているようです。

そりゃあんなに早急に、USが世界中の国を相手に決めた話が、みんなが納得して理解していることなんてあり得ないでしょう。

そして力関係で押し切られるのです。

USが最後の力を振り絞って、力で相手を負かせられる最後であろうタイミングで取った手ですから、とんでもなく相手国に不利になるのは目に見えています。

しかしいつも不思議に思うのは、税金に関する話題は収入か支出のどちらか一方だけの話が盛り上がってしまって、収支を合わせるという感覚に乏しいことです。

例えば日本政府が交付金をばらまくと言った際に、そのメリットとデメリットが対比して討論されるべきなのに、その恩恵を受ける人とそうでない人がいがみ合うだけで、議論が熟す前に実行に移されてしまうことが多々あります。

USの輸入関税の場合はUSが増税するわけですから、その増収分はUSの国家の懐に入るわけです。最初の頃トランプ大統領はUS全国民の所得税をゼロにする事ができるなどと吹聴していましたが、一向にその気配はありません。

アメリカ・ファーストと入っているものの、このままではUS国民は置き去りにされて、国家権力だけが不法な収入にまみれて腐敗していくのは目に見えています。

しかも、その増税の原資は輸出している企業が大部分を負担するということですから、これは世界中の経済圏の企業がUSの政府に莫大な献金を渡すことと同じことです。

もうこれがまかり通ってそれに誰も疑問を呈さないとすれば、そこには関税や自由貿易は言うに及ばず、経済や法律や技術までを含めてそれらの存在意義を否定することになるでしょう。

目先の税率を足し算引き算で一喜一憂している場合ではありません。

産業革命以来の世界の秩序、産業、社会が根底から覆されようとしています。

タイパとものぐさは紙一重

最近の流行として「タイパ」を重視する傾向があるらしいですが、パフォーマンスを気にするのは別に最近に限ったことではありません。

価格に対する満足度としてコストパフォーマンスがよく使われますが、それが時間に変わっっただけです。

しかし、時間を気にするということは、現代人は時間が足りないという思いが強いということなのでしょうか?

よくスマートホンを使う時間が1日に平均5時間だとか6時間だとかいう数字が飛び交いますが、かなりの時間をスマートホンに費やしてしまう結果、残りの時間で出来るだけ手っ取り早くことを済ませないといけなくなったのでしょうか?

スマートホンを利用する時間が、実は最もタイパが悪いことになかなか気付けません!

昔の話で、エジソンがあれほどいろいろな発明をしたのは、面倒なことを機械んみやらせようとしたのがきっかけだったということですから、「ものぐさは発明の母」とはよく言ったものです。

日本人の労働生産性が世界最低水準であることが問題視されていますが、今ならスマートホンを利用する時間を1日数時間削るだけで、生産性が飛躍的に向上しそうです。

ところで、これほどタイパを気にする人が暮らす日本で、人がやりたがらない仕事は人手不足で社会の基盤が揺らいでいるというニュースも多くなりました

要するにタイパ良くと言いながら、好きなことしかしなくなっただけなのでしょう。これもインターネットやSNSによる思考の極端化の現れなのかもしれまん。

今はタイパが流行だと言っているだけで済んでいますが、タイパを求めすぎて社会が立ち行かなくならないことを願いたいものです。

法律にまさるマナーと倫理

犯罪や事件があると、なになにと言う法律に違反しているから禁錮刑や罰金が示されるわけです。

なるほど法律に書かれていると、その罪の重さや罰則が誰の目にも明確になりますから、本人が納得するかどうかは別にして、世間的には明文化された法律によって客観的に罪を理解することができるのです。

ところが、法律だけではなかなか全ての人間の所業の良し悪しを判断できないものです。

法律で裁くまでもない些細なことや、法律の前に人間としてやってはいけないことなど、法律でカバーする範疇外の迷惑なことや事件は以外にたくさんあります。

そのような迷惑な行為に対して、やった本人は「法律のどこに書いてあるのか?」などと言って開き直るのですが、法律に書いていないことこそ基本中の基本、それが分からないのなら人間失格ということでしょう。

日本でマナーと言うと、西洋式のテーブルマナーや茶道華道での仕草のように、どちらかと言えば厳密で杓子定規に思えるようなものを思い浮かべますが、基本は他人を思いやる気持ち、自分が同じことをされたらどう感じるかを察することです。

ですから、どうしても日本ではマナーは普通以上の高度な作法と思いがちですが、普段の他人に対する配慮、気遣いが重要なのです。

そもそもマナーや倫理を親や学校から学機会がありません。だから古典の書物を読む必要があるのですが、最近は文学作品のカテゴリーが増えすぎていて、倫理感を養うような作品に出くわすのは至難の業です。

ニュースでは、日本の政治家が倫理観のない事件を頻繁に引き起こし、海外では倫理観は言うに及ばず、明文化した法律さえも無視して暴挙を振る舞う政治家が溢れかえっています。

21世紀が破壊と崩壊の時代だったという歴史を残さないためにも、倫理とマナーの意味を考え直す必要がありそうです。

NISAとiDeCoの選び方

よくニュースでNISAとiDeCoのどちらを選べば良いかとか、NISAやiDeCoをやった方が良いかなどという質問が記事になっています。

まあ、フィナンシャルプランナーなどの専門家の答えをとにかく期待したい気持ちは分からないでもありませんが、NISAかiDeCoにするかはそれほど重要ではなく、その前に貯蓄か投資のどちらをしたいのかということと、もしお金が溜まったとして、そのお金を年金として老後の生活費として使うのか、それまでの年齢で使うのかを先に決めておく必要があります。

いきなりNISAやかiDeCoかという質問を、それなりの専門家にぶつけてしまうと、いいカモが来たとばかりに売りたい金融商品を売りつけられる可能性が高いので注意しましょう。

そもそも投資について知識がある人は、NISAとiDeCoのどちらにするかなどで迷ったりしません。

NISAもiDeCoもそれぞれの投資目的に相応しい商品があるのならば、その利益については無税になるので、許す範囲内で利用しない手はありません。

しかし、その前にそもそも投資とは何か、年金とは何かということをじっくり考える必要があります。NISAとかiDeCoはその後手続き方法として考えればよいのです。

どうも政府や金融関係者は、貯蓄に眠っている国民の金融資産を無理やり投資商品に振り向けようとしすぎです。

年金が足りないからと言って無理な投資をすれば、さらに老後資金の早期の欠乏を来しますから、投資に関する知識や安全策を教えないで、いきなりNISAとiDeCoはお得ですよと宣伝するのは、いかにも胡散臭い金融屋です。

投資にはリスクは付きものです。

そのリスクを背負える人だけが踏み込んでも良い世界だということを、心に留めて置きたいものです。

「三人よれば文殊の知恵」は今は昔

そこら辺にいる3人が寄り合って相談すれば、何か良い知恵が思い浮かぶと言ったのは今は昔。現在は凡人が3人寄ったぐらいでは分からない程社会が複雑化しております。

そもそも今の現代に本当の凡人がいるのかさえ怪しいものであります。

かの国木田独歩が短編小説「非凡なる凡人」で表現したように、世の中には民衆を正しい道に引っ張る偉人や賢人と呼ばれる人は確かにごく少数必要であるけれども、実際社会を中枢となって動かしていくのは真面目な凡人が重要な役割を果たすのだということです。

今現在の周りを見て、国を統治するべき政治家に偉人や賢人は見当たらず、かと言って身の回り凡人がいるかと言えば、凡人というのはあまりにも悲惨な低レベルの国民しか見当たりません。

民衆のレベルを上げるのは大変な努力が必要であるけれども、レベルを下げるのは自然に任せておけばよいので簡単であるというのは正にそのとおりで、知らぬ間に日本も世界樹も無知無教養が当然の権利のように蔓延る惨状であります。

このようになっては三人どころか大勢が集まったところで、ろくな知恵は湧いてきません。だからこそ人工知能に頼らなければならなくなってしまうのです。

しかし、人工知能に任せるということは人間の叡智を放棄することに他ならないわけで、そんなことは誰も期待していないわけです。けれども現実にはその方向に進んでいる。

いま現実に、いま社会で起こっていること、科学技術がどのように影響を与えているのかを、全人類が自分の知能を使って考えるべきときが来ているのです。