大阪万博の建設予算が1.8倍

2025年の第2次大阪万博の建設予算が、当初の1.8倍の見積もりになっているというニュース。

建設費に限らず、食品も押し並べて30%は価格が上がっている世の中ですから、1.8倍なら致し方ないような気もしますが、今の時点で1.8倍と言っているということは、最終的に3倍近くになるだろうとは素人と言えども誰でも予想できることです。

さて、当初の3倍でも開催の価値があるのならいいのですが、収支が建設費3倍で見合うはずがありません。(もし見合っていたら最初の収支計算がとんでもなく嘘になります。)

最終的に見積もりが3倍になったと言えば、1964年完成の最初の東海道新幹線がありますが、これは高度成長過程にある日本が経済活性化のために必要だったこともあって、予算の使い過ぎだという議論が起こったことはありません。

インフレでお金の価値が下がり基調ですから、最初のうちは赤字が目立っても、そのうちインフレや利用率の上昇で投資の効果が顕著になってきます。

ところが、万博はわずか半年の命です。

しかも、その後跡地を利用するカジノ企業が、跡地の地盤改良に数百億円をかけるように要請しています。

時代が違うのですから、昔のようにイケイケドンドンでは羽目を外します。

ですから、当初予測した予算が外れた時点で、そのプロジェクトは失敗が決定しているのです。無理に進めると赤字が膨らみます。

ここまで来たからには何が何でも成功させると考えるのも、勢いの良かった過去の日本なら許されましたが、今の日本では国民の税金に頼るのは許されません。(ここが大事!)

(日本の政府や地方自治体は、税金をドラえもんのポケットだと思っているのか!)

これは建設予算が1.8倍ならその0.8倍分を支払う勇気があるスポンサーを募って、現れないなら開催を中止にするしかありません。(あとに入るカジノ企業が肩代わりしてくれれば一番良いですが、するわけがないです。)

少なくとも、このまま行けば国民の税金がまたもや無駄なお祭りに使われてしまうだけですし、もはやそれを許せるほど日本は裕福ではありません。

1970年の大阪万博にときは、開催の2~3年前から「大阪万博を成功させよう!」というキャンチフレーズを書いたのぼりが街中に上がっていて、鉛筆などのあらゆるものに印刷されていたいものです。

それほど国民が一体になってあれだけの成功を収めたのです。

それに比べて、今回の大阪万博は盛り上がりもない、予算もない、入場料は高い、行く気はない。これはやめるしかないという状況です。

せめて、赤字が出たら背負ってやるという投資家を今から募って、祭りのあとの尻拭いの準備を始めておくのが賢明かもしれません。

多様化と選択

「世界は多様化する」と唱えられたとおり、今の世の中は様々なものが入り乱れて提供されています。

例えば、昔の通信手段と言えば電話と郵便があって、その次は電報と急に敷居が高くなります。

ところが今や電話一つとっても固定電話やスマートホン、LINEにIP電話にミーティングツールなど。もとは電話とインターネットだとしても、そこにつながるための手段が数え切れないほどあります。

またそれぞれの敷居はそこそこ高くて、いったんある方法で電話をすることに落ち着いたら、なかなか他の方法に移ることができません。特に電話は相手がありますから、相手と同期を取って手段を変更するのはさらに面倒になります。

以前なら古い方法がコスト面や使い勝手の点で淘汰されていき、自然とデファクトスタンダードというものが残って行くのですが、最近は手段が多すぎて優劣を決める要因がたくさんあり過ぎて、相互の比較さえ困難になってしまいました。

これは電話に限らず、テレビの視聴方法だったり。通販の購入経路だったり、宿泊予約方法だったり、切符の予約システムだったり、それぞれに多くのバリエーションがあってどれが良いのかいちいち迷っている時間がありません。

その結果、同じような機能を持ったサービスが溢れかえって、もはや優劣さえもつけられない状態になっていて、その結果本来淘汰される経済的に優位性がないものも、ダラダラと継続してしまうという事態になっています。

自由経済は比較によってより優れたものが選別されていくことが必要ですが、ここまであらゆる分野で多様化が進んでしまうと、人々の選別する気概がなくなって方法の優劣などどうでも良くなっているのではないでしょうか?

多くの選択肢があることは幸せに結びつかないという説もありますから、何らかの規制をかけて、選択の幅は残しつつもう少し社会をシンプルにしていくことが必要です。

このままでは世界中がゴミ屋敷になってしまうかもしれません。