どうしてドイツだけ違うの?

もう何十年も前の話です。

仕事でドイツ人と英語で話していた時、「どうしてGermanyとGermanをよく間違えるのか?」と言われたことがあります。

当時は自分の拙い英語のせいだと思っていましたが、最近になってドイツだけ他の国と違っていることに気づきました。(気付くのがあまりにも遅い!)

  • 日本(Japan)、日本人(Japanese)、日本語(Japanese)
  • 中国(China)、中国人(Chinese)、中国語(Chinese)
  • 韓国(Korea)、韓国人(Korean)、韓国語(Korean)
  • アメリカ(America)、アメリカ人(American)、アメリカ語(American)
  • フランス(France)、フランス人(French)、フランス語(French)
  • イタリア(Italy)、イタリア人(Italian)、イタリア語(Italian)
  • ドイツ(Germany)、ドイツ人(German)、ドイツ語(German

ほとんど国は、まず国名が基本形で、国民や言語は形容詞型になっています。

しかし、ドイツだけが逆になっていて、まず国民と言語が基本形で、国名はその形容詞型になっています。

なぜか分かる方いらっしゃいますか?

なにか深い意味がありそうだと思うのですが、ざっとインターネットで検索しても、ドイツの呼称が色々あると言うことは書かれていても、国名と国民が逆になっていることについての解説は見つけられませんでした。

このことは英語だけのことなのか、他の言語でも同様なのか、色々疑問が湧いてきます。

はるか昔にドイツ人と話しにくかった理由が分かってスッキリした途端、新たな疑問が湧いてしまったのでした。

名ばかりのビジネスクラス

プレジデント・オンラインに掲載されている「日本特有の『名ばかりS席』を許してはいけない…消費者法の専門家がエンタメ業界の悪慣習に怒るワケ」という記事。

日本の劇場のチケットのS席は、その数が多すぎてSpecialのSに相応しくない席までもがS席の料金設定になっていて、消費者はもっと怒らなければならないと指摘しています。

その記事に書かれた調査によると、劇場全体の61%がS席に指定されているとのこと。

劇場で観やすい席の位置はそれほど多くないはずで、S席に相当しない席ならA席やB席と順当な席のランク付けをするべきだと言っています。

確かに最近の劇場での席は、S席以外はほとんど最悪の端っこや最後部になっていて、少なくともまともに鑑賞しようとするならばS席以外の選択はなさそうです。

要するに値段の吊り上げが行われているわけで、大した価値がないものを高く売りつけるあくどい商法の一つと言えましょう。

おそらくS席の中でも本当に良い席は、また別途お得意様向けに別のルートで流通しているのでしょう。S席を購入したからと安心して良い席が巡ってくるだろうとは思わないほうが無難です。

この話を聞いていて思い出したのが、バブルの頃のビジネスクラスです。

当時、エコノミークラスは団体旅行向けのやすいチケットが流通していて、日本~北米路線で15万円ぐらいで流通していました。対してビジネスクラスは、企業の出張族が使うチケットで相場は40万円ぐらいでした。

その頃、日本航空の成田ーJFK路線のビジネスクラスに搭乗したのですが、ボーイング747型機の機内に入って席を探すと、最後尾のブロックの半分がビジネスクラスだったことがありました。

エコノミークラスはその後ろに10列ほどあるだけで、機内のほとんどがビジネスクラスなのです。おそらくビジネスクラス率は80%は超えていたでしょう。

ですからビジネスクラスに乗った優越感もなく、客室乗務員からもビジネスクラス的な扱いはなく、ただただ退屈な時間を過ごすしかありませんでした。

同じ頃でもANAならそのようなことはなかったようですから、日本航空特有の高利益率フライトだったのかも知れません。

S席ばかりの劇場とビジネスクラスばかりの航空機、どちらも利用したくはありませんね。

共存共栄

まあ世の中には反発しあっているようで、実は持ちつ持たれつの関係にある間柄が多くて、それで均衡を保ってそれぞれの存在価値を見出していることも多い訳です。

例えば歯医者さんに行けば、歯科衛生士さんが出てきて歯磨き指導とやらをやってくれるのですが、本当に歯磨き指導に効果があるならば、歯医者さんの出番が減ってしまうので、それほど効果がないことを丹念に指導してくれている訳です。

あるいは自動車のディーラーに車検を出した時に、完璧に新車に近い出来栄えにしてしまうと、新しい車を買ってもらえなくなるので、適当に壊れるように仕向けるのも商売として当然なのでしょう。

また警察も、世の中からすべての悪が消え去ってしまったら警察の存在価値がなくなりますから、大きな問題ならない程度の悪は温存しておくことも必要かもしれません。

裁判所にしても、世の中から争いがなくなれば必要なくなりますから、適当なレベルの犯罪や揉め事までも駆逐してしまったら出番がなくなります。

そう考えると、世の中はおそらく太古の時代から今日まで、一定の均衡を保っているからこそそれぞれの商売が成り立っている訳で、均衡が保たれなくなった途端にその存在は消え去ってしまう運命にあるのです。

ですから世の中のニュースを見る時は、適当な程度で頻度の問題で均衡が取れていと思えるときは、「世の中は適当に平和だな」と思えばよいのでしょう。

よく中庸が程よい加減だと言いますが、善と悪もバランスが取れていれば目くじらを立てる必要もないのかも知れません。

善玉菌と悪玉菌のように!

アルコール週140gの呪縛

少し前に「アルコール管理アプリ」という投稿で、飲酒量を管理するアプリをスマートフォンにインストールして、毎日の飲酒量を管理(出来ればに話だが)しようという話を書きました。

しばらくは続けていたのですが、いちいち記録することが面倒になり、中途半端なデータが残ったアプリもアンインストールしてしまいました。

結局アプリにデータを記録することだけで安心してしまい、飲酒量を管理するまでには至りませんでした。家計簿に毎日支払いした金額を書き込むだけで、家計を管理していると錯覚するのと同じでしょうか。

さて飲酒量はイギリスのある研究によって、週当たり140gのエチルアルコール量を超えると健康に影響を及ぼし始めると言うことから、1日当り20g以内に抑えると安心だと言われております。

もっともアルコールは1滴でも健康に悪影響が出るという説もありますから、人によって限度の設定は違うかも知れません。

いずれにしても、アルコール摂取量を測るにはエチルアルコールの体積ではなく質量が重要なのですが、ここで疑問が生じます。

例えば、500ml缶のビールがアルコール度数が5%の場合、500ml x 0.05 = 25ml となり、アルコールの比重が0.8(アプリでは0.79で計算していましたが、)ということで、25ml x 0.8g/ml = 20g となります。

つまり、毎日飲むのなら500mlで5%のビールを、週7日飲めば限度を超えないということで、安心してロング缶を毎日飲んでおられる方も多いかと思います。

ただ、小学校の理科で習ったとおり、水とアルコールは混合すると体積が減ります。しかし、いくら(何%)減るかというデータは見かけたことがありません。

「混ぜて体積が減るのなら、もう少し飲んでも構わんか!」と常に多い目になっている方もいるかも知れません。(それは私!)

おそらく、容積というのは液体の温度や撹拌状況によって変わるのでしょうが、大概のアルコールの計算は、全体の容量にアルコール度数をかけたものに、比重の0.8をかけて求めているようです。

正確なアルコール量を計算したいという要望があったのかどうか分かりませんが、最近になってアルコール飲料の度数表示を、容量に対する度数ではなく、アルコール重量で表示する動きがあるようです。

つまり「この缶には何グラムのエチルアルコールが入っています」という表示に変わりつつあるということです。

これなら容量から計算する必要がありませんから、20g以内かどうかをすぐに判断できます。(ただし判断できるうちは、、、)

まあ、結局アルコール度数には誤差が付き物らしいですから、あまり計算方法にこだわってもアルコール量が正確に求まる訳ではありません。

ましてや週140gを超えたら急に病に伏すということでもありませんから、健康に気をつけながら、迷惑にならない程度に楽しく飲酒することが大切だということでしょう。

ところで、サッポロのチューハイにフォーナイン(99.99)と称したものが出たとき、「アルコール度数99.99%だと!」と色めきだったあなた!(これも私です。)

これはアルコール度数ではなくアルコールの純度だということですが、つまりアルコール飲料中のアルコールにはエチルアルコール以外のもの、例えばメチルアルコールなどが含まれているらしく、それらがいわゆる悪酔いの原因になっているとか。

よく醸造酒のワインやビールが悪酔いすると言われますが、アルコール純度が原因だったのかも知れません。

また、エチルアルコールの純度は、95%ぐらいになると特殊な(毒性の強い)薬品の力を借りないとそれ以上純度を上げられないと言われています。

99.99%の純度がどうやって達成できたか? まだまだ疑問が尽きません。

お賽銭と賄賂

この辺りの話ってあまり真剣に語ることが少ないのですね。そこであえて一説。

「苦しい時の神頼み」と申しますが、初詣も含めて成就するかしないかの願い事を、謙虚に神様にお願いすることで幸運に導いていただこうとするのが、日本人の心であります。

もちろん箸にも棒にもかからないような高望みをしても神様はお見通しですから、望みを叶えていただくことはできません。

それなりに努力をして、どっちに転んでもおかしくないぐらい微妙なところで、神様にちょっと背中を押す程度に力添えをして頂く事ができるということなのでしょう。

神様のご加護は大変ありがたいものでありますから、それなりのお礼をしなければなりません。ですから、新年お初詣の際にはお賽銭を、そして願いが運良く叶った折にはお礼参りをしなければならないのはご承知のとおりです。

さて、現実の世界を見渡しますと、コネや賄賂といった犯罪が引きも切らずに蔓延っております。

特にニュースになるのは大物の大金を積んだ案件ばかりですから、世間の批判も強うございますが、日常的には学校や医者の先生へのお歳暮やお中元、会社や政治家の袖の下や賄賂がまかり通っております。

で、お賽銭と賄賂は性格としてはほぼ同じものと思われ、叶うか叶わないか瀬戸際の願いを叶えるための最後の願掛けであるわけです。ここが重要なのですがどちらもお金が絡みます。

片や願いを叶えることが神がかり的な神様と、願いを叶えることが権力越しの権力者とどちらが悪者なのか?

権力によって叶えさせてあげられる権力者は、もらったお金に見合う対価を与えることができますが、神様は実は知らぬ存ぜん、お賽銭に見合う働きが科学的に証明されたことはありません。

望みを叶うために賄賂を渡す者とお賽銭を渡す者は、やっていることはほぼ同じでしょう。

しかし、受け取った者は、望みを叶える権力を持ったものが罰せられ、知らぬ存ぜんの神様は罰せられない。

お金を受け取って何もしない(と思われる)神様が善で、賄賂に見合った権力を振るった権力者が悪。

じっくり考えると、私たちのやっていることは理解しがたい。