ニュースが多様化しすぎて煩雑になった

最近ニュースメディアの配信料を巡って、ポータルサイトと争っているという問題が報じられていました。

世界中にニュースを追って特派員を派遣しているメディアに対して、ニュースを配信しているだけのサイトが広告などで稼ぐ割に、ニュースメディアに対する報酬が少ないということだったと思います。

最近、インターネットによって20~30年前には伝わってこなかった世界中のニュースが、日本国内と同じスピードで駆け巡ってくるおかげで、日本と同じ問題を世界の国々も抱えていることを知ることができるようになりました。

その反面、あらゆるニュースがごった煮の状態になってしまって、本当に重要な事件なのか適当に流せばよい事件なのか分からなくなっています。

処理能力を超えた情報が常に入ってくるおかげで、情報を理解する時間がないうちに次々と新しい情報に書き換わってしまっていて、列車の窓から流れる景色を眺めているような状態になっています。

テレビやYouTubeでは、それらのニュースを分類してサマリーしながら解説する親切な番組もありますが、世間の出来事を鳥瞰しているような感じで、それも何か物足りなさを感じます。

以前なら遠い国の事件は、それなりの時間が経って顛末まで含めて聞き伝えしていましたから、それほど慌てて何かを考える必要はありませんでしたが、インターネットで直接リアルタイムにすべてのニュースが伝わってくると、どう処理したら良いか迷ってしまうことも出てきます。

その結果、全ての情報に対しての感性が鈍くなってしまい、何事にも動じない、あるいは世の中の動きに関心がなくなっていくような気がします。

せっかく世界中からタイムリーな情報が入ってくるテクノロジーがあるのですから、それを活かすのは大事ですが、もう少し入り口で分類する必要があるのではないかと思います。

もちろんポータルサイトで分類されていますが、情報量が多すぎて溢れてしまっている状態になってしまっていないでしょうか?(私の情報処理能力が低いだけ? うーん、そうかも知れません。)

名古屋城の木造化は必要か?

江戸時代の本物を木造建築で再現する計画が、思わぬ方向に向かっています。

そもそもコンクリート建築と木造建築の価値観の違いで揉めているところに、エレベーターの設置によってせっかく木造建築にしたのに本物感が失われるという意見と、バリアフリーを目指すべきだという意見が衝突しています。

まあいずれはどちらかが譲歩できるところは譲歩して、どっちつかずの結果に落ち着くのが常なのでしょうが、ここでもう一度文化遺産や歴史的建築物について考えてみたいと思います。

例えば絵画の場合、原画を修復したものと、レプリカしたものは明らかな価値の差があるように思います。いかにレプリカが精巧であったとしてもそういうレベルの問題ではありません。

ただ建築物については、戦争や天災で破壊された場合、絵画に比べて遺産としての価値があるように思います。

絵画の場合は、画家の筆使いやキャンバスの質感、保存状態の良し悪しが決定的に価値を持ちます。

しかし、建築物の場合は、そもそも作者たるべき大工さんが誰かも分かりませんから、「のみ」や「かんな」のタッチが話題になることはありません。

名古屋城ほどの規模になると、歴史的にこのような立派な建造物がある時代にある人物によって建てられたということが重要なわけで、本当に存在したことが歴史上証明されていれば、別に建築物としての本物感は重要でないような気がします。(あくまで個人的意見です。)

もし、木造建築でとてつもない難しい工法であったとか、世界一高い木造建築だったとかなら、木造以外で再現しても存在価値がないかもしれませんが、名古屋城を今更木造建築にしたところで、本物と同じ材料で作ったというだけであって、それほど本物に近づいたという気がしないのではないかと思います。

ということでここでの結論は、そもそも現状の名古屋城を大切に守っていけば良いのではないかと思うのです。

現状の金のシャチホコにも結構思い入れがある人達も多かろうと思いますし、今の名古屋城を建造するときもその時の最善を尽くしたのでしょうから、何もわざわざ壊してまで似たようなレプリカを造りなおす意味はないと思う次第です。