楽しむことと頑張ること

東洋経済オンラインに”「がんばる」は悪い意味、しんどいならやめたらいい みんなが「プロ意識」を持ちがちな日本人へ”という記事が掲載されています。

がんばるのは無理をしてまでやるべきことだけに限って、何でもかんでもがんばるのは悪いことだと諭しています。

達成する目的が意味があれば、それなりに成就するための努力は必要であるが、その目的は本当にがんばるに相応しいのもかと疑問を呈しています。

だいぶ前になりますがバラエティ番組でかの上岡龍太郎氏が、市民マラソンを一所懸命走っているときに沿道で一般の人が応援してくれるのはいいが、「がんばれ~」という応援だけは止めて欲しいと。

「もう十分頑張っているって!」ということらしいです。

かと言って、「無理すんなよ!」という掛け声では応援になりません。難しいです。

昔なら運動会で1等賞を取った取らないで一喜一憂していましたが、最近は順番をつけるのは教育上良くないということで、走った人全員入賞みたいな扱いになっています。

それはそれで極端かも知れません。

まあ世の中には、勝ち負けがはっきりしている方が楽しい人もいますが、勝ち負けよりその時間を楽しみたいという人もいます。

最近の野球や陸上競技の世界では、以前のようなスパルタ式のトレーニングより、個人に合わせた自由な練習の方が成果を出しているケースがあります。

個性を無視した一律的な指導は過去のものとなり、個別指導の重要性が認識されてきたということでしょう。

これは野球などの運動だけでなく、全ての学びに関して同じことが言えると思います。

リスキリングや生涯学習の重要性が叫ばれている今こそ、がんばらずに楽しめる学びやトレーニングの手法を見つけ出したいものです。

郵便は終わっていた!

郵便局の不祥事は相変わらずで、保険や金融業としての適正を疑うような事件も相次いでいます。

しかし、肝心な郵便事業でも最近はとんでもないことになってきているようです。

市内での郵便局留めの郵便物が、しかもその本局で出しても翌々日にならなければ届かないと!

しかも、窓口の担当者もおかしいと思うと言いながら、規則で翌々日まで届きませんと言う。

誰が見ても郵便物を数十メートル移動させるのに2日かかると言われて、「はいそうですか」とは言わないでしょう。

確かに郵便局が用意している配達日数サイトによれば、同じ市内の郵便番号でも翌々日配達となって、早く届けたければ速達か書留にしなさいとなるようです。

民営化したための営業努力といえばそれまでですが、特別料金を搾取するために、数十メートルの移動に速達料金を要求するのは法外です。

これでは役に立たない。

63円や84円では、これまでのように全国どこにでも1〜2日で届けるには安すぎるかも知れませんが、歩いていける距離に2日かかるのなら高すぎる。

一円切手の前島密が嘆いていることでしょう。

国営から民営化して良くなった事業もありますが、極端に悪くなったのが郵便事業と言えるでしょう。

確かに郵便で届くものといえば、今ではそれほど多くはありません。いっその事、全ての信書も宅配便に任せてしまえばよいほどの体たらくです。

地方に行けば、郵便局が今でも重要な役割を果たしているのかも知れませんが、それにしても郵便局の落ちぶれ加減は、もう二度と使わないと思わせるほどにひどいものです。

さあその手紙、郵便で送りますか、それともメールかLINEで済ませますか? あるいは、持参して手渡ししますか?

ストリートピアノ

加古川市にあったストリートピアノが、利用者のマナーの問題で撤去されたというニュース。

これについていろいろな意見があるようで、日本人のマナーの低下や規則遵守の風潮が薄れてきたという意見とともに、ストリートピアノ自体が日本の文化的に受け入れられていなかったのではないかという意見もあるようです。

1980年代にまだ若かりし頃のトム・ハンクスが主演した「Big」という映画がありました。

13歳の少年が早く大人になりたいと願ったところ、急に20代のおとなになってしまい、おもちゃ会社の社員となって社会人生活を始めたという設定のファンタジー映画です。

ニューヨーク市の、おそらくメーシーズと思われるデパートのおもちゃ売り場を訪れた時、フロアに置かれたオルガン鍵盤の上を脚で踏むと音階が出るので面白がっていたら、偶然通りがかった自分の会社の社長と意気投合して、即興で連弾するという微笑ましいシーンです。

https://www.imdb.com/title/tt0094737/mediaviewer/rm3761163009/?ref_=tt_md_1

ストリートピアノのあるべき姿のような気がします。

私が普段通るエリアにはストリートピアノを見かけないので、最近どのような雰囲気なのかよく分かりませんが、個人的にはストリートピアノやストリートミュージシャンの音楽に少し立ち止まることはありますが、それほど聞き入る事はありません。

プロ並みにうまい場合ならば聞き入ることもあると思いますが、街の雰囲気の一部であるという感じで、それほど期待もしないですし、それほど邪魔だとも思いません。

一時関西のJR駅のホームに、四六時中クラシック音楽が流れていたことがありました。

電車を待つ時間が長い場合は、逆にバロックのようなクラシックを、拡声器のような音質の悪いスピーカーから流れる音楽はノイズでしかありませんでした。

苦情が多かったのかそのうちに消えてしまいましたが、ストリートピアノもその場の雰囲気として相応しいかどうかが分かれ目なように思います。

それから演奏する人や通りがかった聴衆に余裕がなければ、なかなか良い雰囲気を作り出すことはできないでしょう。

演奏会などでもそうですが、演奏者と聴衆のどちらもが素晴らしい人達で、うまく噛み合ったときに最高の音楽が生まれます。

ただ余ったピアノを置いておけば、良い音楽が奏でられて人々が聴き入るというほど簡単ではありません。

今回撤去されたピアノには残念ですが、ストリートピアノという取り組みは今後も続けて頂きたいと思います。

なぜリュックを振り回す?

なぜか最近、通勤電車の中でリュックの紐にシバかれ続けて悲鳴を上げております。

「ひぇー」

最近はビジネスバッグも通学バッグもリュックタイプのものが多くなっておりまして、それなりに考慮されたものではあまり紐がヒラヒラすることはないのですが、あまりできが良くないものはその点が考慮されておらず、回りにヒラヒラする紐を撒き散らしております。

なにか100円ショップでリュック紐取締グッズでもあれば良さそうなものですが、そもそもヒラヒラに気づいていなかったり、それがどうした系の使用者の場合はグッズの必要性を感じないのであっても意味がありません。

で、リュックは別名バックパックとも呼びますから背中に背負いますが、その際に重さも手伝ってエイッと体の周りを遠心力を利用して振り回して背中に移動させる際、ただでさえヒラヒラして邪魔な紐が、遠心力で広がってかなり広い範囲を総ナメしてひっぱたき回る訳です。

いやっ本物のムチではありませんからたいして痛いわけではありませんが、概ね人の顔辺りを結構な勢いで飛んできますから、当たればラッキーと言えるほどありがたいものではありません。

ましてやそのリュックたるや、それまでは地べたに置かれてホコリまみれ砂まみれですから、その紐が顔に触れるのはできれば避けたい、いやっ絶対避けたいと思うわけです。

ですから、その同乗客が次の駅で降りる仕草を始めたら、その人が思慮深いマナー精神に満ちた人なのか、無作法でガサツな人なのかを瞬時に見極め、もし後者なら飛んでくる仮想ムチに備えて身構えるのです。

あと衣服の裾も結構面倒でして、結構裾を回りに振りまきながら乗り降りする人もたくさんおられます。

電車で座るときはボタンを止めて裾が広がらないようにするのが、紳士淑女の最低限のマナーだったのですが、スマホを注目してイヤホンから音が漏れているようではマナーどころではありません。

まあこれもゲームだと思って、うまく避けられた日は一人でほくそ笑むしかないのでしょう。(こんなことでも楽しめなければ日常が嫌になってしまうから、、、)

最近は風呂に毎日入らないらしい

最近、風呂の設備がない賃貸住宅物件に人気があるらしいです。

テレビ番組で特集を組んでいるほどですから、かなり浸透しているのかも知れません。

嘘か本当かは知りませんが、そもそも風呂に毎日入るという習慣がなくなってきているということらしいです。

なるほど、最近通勤時間の電車に乗っていると、以前に比べて清潔感がない人を時々見かけますが、そういうことだったのかと納得です。

そう言えば、最近朝シャンが話題になることがありません。物事は極端から極端に飛ぶことが多いですから、朝シャンからノーシャンに変化したのでしょう。

お決まりの落語の一節を思い出しました。

「おい、おまはんも嫁さんもらうんやったら身ぎれいにせなあかんで。ちゃんと風呂に入っとるんかいな?」

「失礼なこと言いますな! ちゃんと2回入ってまんがな。」

「おー偉いな、朝晩2回入ってるか?」

「いやっ、盆と正月!」

日本人が毎日風呂にはいるようになったのは、昭和40年代に入ってからでしょうか? 風呂はない住宅もまだ多かったですから、街なかに風呂屋が必ずありました。

昭和40年代はまだシャンプーが粉末だった頃です。大阪万博の頃から急激に生活が近代化された記憶があります。シャンプーやその他の衛生用品のCMが急激に増えた頃です。

ここに来てまた風呂の普及率が下がり始めたのは驚きですが、給与が上がらない、物価が上昇するなどの影響で生活レベルが下がれば、風呂のあるなしに影響するのは当然かも知れません。

このまま昭和の頃のレベルまで、生活レベルが落ちていってしまうのでしょうか?

街角のインタビューでは、お風呂に入るとスマホができないというのが理由だったりすると、スマホが日常生活を妨げるまでに蔓延ってしまったと言えるでしょう。

最近は情報を一日中浴びすぎて、脳が麻痺をしてきているという説もありますから、いずれ大きな問題になってくるでしょう。

風呂不要論も少子化も低所得化も全てスマホが原因だったとしたら、かなり恐ろしい社会問題と言えるでしょう。

とにかく、電車が臭くて一年中窓を開け放って疾走する事にならないことを祈ります。