AIが家族代わりになる

よくInfoseek Newsなどに結婚相談所の相談員の方の体験談が載っているのですが、それを見ていて思うのは、最近は何でも契約社会になってきていて、保険契約や雇用契約と同じように結婚も契約の一種のなってきているように思います。

最近の人なら「そんなのは当たり前、何を今更!」と言われるかも知れませんが、昭和の時代なら家族というのは契約を超えたもので、言ってみれば契約と宗教の中間ぐらいに位置している感覚でした。

宗教に近づくと何か怪しく思われるかも知れませんが、契約のように文章で明確に記述できるものでなく、精神的な「契(ちぎり)」のような感じがあったのではないかと思います。

それを「絆」だの「愛」だのと言っていたのですが、どうも最近の結婚相談所の様子を伺っていると、生活をするための条件が一致するかどうかが重要で、ひとたび条件が合わなくなってきた途端すぐに離婚するしかないような、つまり契約の「解約」がすぐに出来てしまうようになってしまったように思います。

別のそれが合理的で生活しやすいのならそれで良いのですが、もう忘れかけている昭和の考え方からすれば味気がない、人間味がないような気がいたします。

社会は時間とともに変化しますから、それはそれで受け入れるしかないのですが、従来の家族の役割、つまり一緒に喜びや悲しみを分かち合ったり、お互いをいたわり、励まし、尊敬し合うということができなくなってしまうのではないかと心配になります。

ところでAIというと人工知能、すなわち知能としての利用が進んでいますが、従来の家族の役割を担うことは出来ないでしょうか?

寂しいとすぐにペットを思い出す人がいるかも知れませんが、AIがその代わりになるとしたらそれはそれで楽しいのではなかろうかと思います。

そのような映画はいくつもあって、恐ろしい結果になることが多いのですが、心温まる情景もたくさんありました。

ソニーのアイボがそれに近いものかも知れませんが、知能が十分でなく表現力もいまいちです。

AIなら話し相手にもなりますし、たまに間違えるとしても相談相手にもなるでしょう。また相手の性格を分析して合わせるところは合わせて、たまにはひねくれてみたり反発したりもできそうです。

老後の孤独問題も含めて、AIが家族のように話し相手になれば、大きな市場になるかも知れません。AIとアンドロイドの技術を組み合わせて、2~3年後にはたくさんの製品が溢れているかも知れません。

ただし、人造家族が現実になることが人類の進歩と言えるかどうか分かりませんが。

企業の英語公用語化

企業の社内言語を英語に統一する動きが、また活発化して第2波が始まろうとしているというニュース。

海外から採用された従業員が増えてくると、予め英語を基準にして社内規定や手続きを作成していた方が効率的でしょう。

如何に中国人が世界のビジネス現場で席巻しているとはいえ、彼等も英語には不自由しませんから、どれか一つの言語と慣ればビジネス的には英語一択。

ましてや日本人は小学校から正規の教科として採用していますから、「ビジネスで英語を使うなんておちゃのこさいさい、言われんでも英語で仕事できるわ!」となるところですが、そうは問屋が卸さない!

実用的な英語が身についていないとは長らく言われ続けていますが、何十年も経ってもまだ英会話教室がCMあたりを流しているところを見ると、まだ発展途上というところですか。

しかし、考えてみれば、海外から優秀な(優秀でなくても)社員が来たり、海外との協業で否が応でも英語で話さないといけない環境なら、多少の上手い下手はあっても、少し時間をかければ英語に馴染んでくるものと思うのですが、それでは生ぬるいでしょうか?

もし業務で英語を使う機会が少なくて(会話でも文章でも)英語が上達しないというのなら、その職場はさほど英語を必要としていないのではないかと思います。

よく海外の大学に留学して1年とか2年経って日本に帰国したときに、思ったほど英語が上達していない人がいますが、それは海外にいても英語を使わずに住む環境にいたからで、本当に英語を話さなければ生活ができないとしたら、英語が話せるようになるか途中で諦めて帰国するかでしょう。

ですから社内公用語を決めるとしたら、社内の書類的なものを英語化するかどうかだけが重要であって、業務上一番効率が良い言語を使うのが正しいように思います。

日本人同士が英語を無理に使って仕事の効率を下げるほど、業績に余裕がある企業はないのではないかと思います。

社内業務に英語を使った方が効率が良ければ英語で仕事をする。日本語が良ければ日本語で仕事をする。

要は業務の評価を正しくする仕組みがないところに、真の問題が潜んでいるのではないでしょうか?

アルパを極める

最近は何でもパフォーマンスを求める傾向があります。

日常、スマートホンによって情報が溢れているため、それを処理するのに追われて時間が足りない人が増えております。

そこで、時間を効率的に使おうと「タイムパフォーマンス」(タイパ)なる言葉が出てきて、まさに「タイム・イズ・マネー」の様相を呈しております。

なんでも「パ」を付ければ効率を目指せるのなら、効率よくアルコールに酔えるアルコールパフォーマンス(アルパ)もありかなと思うわけです。

最近はアルコール度数9%のチューハイは当たり前のように売られていて、もはや市場では一定の支持を得ているようでありますが、「せんべろ」と言ったりもして、安く酔える方法を追求する人もそれなりの多いのではないかと思います。

まあ安く酔えればよいだけなら別にコスパで片付けても良いのですが、あえてアルパなる言葉を提案してみる訳です。

つまり、コスト以外にもアルコールならではの観点があるのではなかろうかと思うわけです。(「安く」だけでなく、「早く(速く)」、「うまく」、「おいしく」、「心地よく」、「漂いながら」、「夢心地で」などなど)

しかし、こればかりはその地方、その地域ごとに安売りの店があったりしますので、一概にどの商品がアルパが高いとは言い切れないのでありまして、具体的なアルコール1gあたりの金額を並べて比較することはあまり意味がなかろうかと思います。

ただ一般的にアルパが高いだろうと思い出すのは、ペットボトル入りの焼酎やウィスキーの類いで、もう燃料かと思うぐらいの大きなボトルで売られているものが如何にも安そうに思われます。

ただ、焼酎やウィスキーでもアルコール度数が高くなるにしたがって値段も上がる傾向があり、やはりアルコールを穀物などから発酵させて作り出すには、時間と労力がかかるのだということを実感するわけです。

で以前、地元のスーパーで実際に売られている価格で、いろいろなお酒のアルパを計算したところ、大きなペットボトルの焼酎やウィスキーに比べて、500mlアルミ缶の9%チューハイがほぼ同等のアルパを発揮した事がありましたので、それ以降あまり考えずに9%缶チューハイを愛飲しておりました。

チューハイには合成甘味料が入ったものも多く、後味が引っかることと腸内環境に良くないという指摘もあり、できるだけドライで甘味料が入らないものを求めておりました。

しかし、そろそろ飽きてきたこともあり、先日スーパーで他のお酒を物色しておりましたところ、ジンとかウォッカで高アルコール度数で安いものが目についたのです。

スミノフは、ウォッカで40%程度の度数で値段も安いのですが、生産国はイングランドのようですがラベルにロシアの文字があって、戦況に影響を及ぼしたら嫌なのでパス。

するとそのすぐ横に、同じくイングランド産のジンが並んでいて、値段も安いのですが度数がなんと50%と書かれています。

ジンといえば、癖の強い風味が特徴という先入観がありましたが、最近はそれほど癖が強いわけでもなさそうですし、何と言っても50%は魅力的! (5倍に薄めても10%もある!)

元々イギリス原産ということですから安心して飲めますし、アルパも9%チューハイに匹敵できるのではなかろうかと。

次回買おうと思います。(まだ買ってないんかい!)

政治と宗教は話題にできない

よく話題として、政治と宗教は相応しくないと言われる場面があります。

就職の面接でもそうですし、仲間内の他愛のない話題としても相応しくないとされています。

それだけ結論が出ない話題であるのですが、簡単に結論が出てはかえって困ることにもなりそうです。

宗教的なテーマは、数々の映画で長年に渡ってテーマにされてきましたし、だからといって結論が出たという話は聞いたことがありません。

つまり宗教的な話題には結論が出ないのが常でありまして、それほど根が深いテーマだということに世間の理解が一致しているわけです。

政治の世界においても、そもそも論理的に話し合えば結論が出そうなものですが、論理的な結論は一向に見えてこない傾向があります。

それほど政治の世界が奥深いとは思えないのですが、底が見えない井戸のように奥がどうなっているのか一向に見えません。

単に濁っているだけで、意外と底が浅いのかも知れません。

これらのように、あまり世間には晒してはいけないという習慣があると、如何にもたいそうな難しいもののように思えてしまうのですが、本来は明瞭完結に説明できるものでなければならないはずです。

人々の生活を快適に豊かにするのに、それほど複雑な方程式を解かなければならないほど、社会は複雑なはずがありません。

単に凡人に分かりにくくしてごまかすために、ややこしい制度を作りまくっているだけ。

で、政治や宗教を話題にしてしまうと喧嘩(戦争)になるのは、本質が論理的な議論では結論が出ないほど非論理的であるということに他なりません。

ですから、話題にしてはいけないのです。

心の支えというのはそんなものです。ナンノコッチャ?

本気で悪いと思っていない?

ドライブレコーダーは、あおり運転に遭遇したりもらい事故に遭ったときに、自分の無実を証明するツールとして推奨され、ここ数年装着する人が急激に増えてきました。

しかし、悪質な事故が起こったときに、その事故を起こした張本人の車に装着されていたドライブレコーダーで記録されたものが、事故の証拠として採用される場合があります。

事故を起こした運転者が不利になる証拠を、自ら差し出すことに違和感があったのですが、ふと考えてみると、事故を起こした本人は事故の原因が自分にあることを認識していないのではないかと思うようになりました。

事故の原因が自分にあって、証拠があると不利になると予測できれば、普通の神経だったら証拠を隠滅するのではないでしょうか?

それをみすみす警察に証拠として没収され、それが決定的な証拠となって事故の責任を問われるのは、自分が悪いことをしたという自覚がないのでしょう。

最近、YouTubeで回転寿司などでの迷惑行為の動画を公開する連中にしても、仲間内しか見ていないという勘違いがあるのかもしれませんが、そもそも悪い行為だとは思っていない訳です。

これは平気に悪事を働く人間が増えていて、悪いと知って犯罪を起こすよりも怖いことではないでしょうか?

未来では人々は段々と周りの人の行動に関心がなくなり、自分の好きなことを好きなようにやって、それが他の人に危害を与えようが全く気にならなくなる。

タイムマシンで未来を描いた映画でよくある想定です。

SDGsが話題になり、地球の環境を未来まで継続できるようにしようという活動が進められていますが、地球より先に人間自身が未来まで継続できなくなって行くような気がします。

人間が生命として、絶対に欠かしてはいけないものが失われてきたのでしょうか?