ハロウィーンが終わったら早速クリスマスとな?

ハロウィーンが大きな事故もなく過ぎたことは、大量の警官を投入した各地の警察の功績といえましょうが、そのほとぼりが冷めないうちに世間では瞬く間にクリスマスシーズンの到来です。

ディズニーランドのCMからしてクリスマスの文字が踊っていますし、近所のスーパーに行っても、いつの間に赤や緑のクリスマスデコレーションが目立つようになりました。

USなどではハロウィーンの後は、11月末の感謝祭があってからクリスマスに移りますから、1ヶ月毎にイベントが繰り返すのですが、日本では1つ飛んでクリスマス商戦が2ヶ月間続くことになります。

日本でも秋祭りがありますから、秋季の全国的なイベントを作るのもありだと思いますが、一気にクリスマスに持っていこうとすると、2ヶ月の間に息切れするのではないかと思います。

最近は、お正月のおせちの予約が始まると同時に、クリスマスディナーの予約も始まっていて、ホテルやレストランでの食事に加えて、デパ地下の惣菜売り場でもクリスマスの予約を繰り広げるようになりました。

昔は12月になったら師走の慌ただしさを感じたものですが、今は11月からもう年末の雰囲気が漂っています。

秋になっても気温が高い日が続いたり、秋の味覚のサンマや松茸がなかなか市場に出てきないため秋の季節感は感じにくいのですが、その代わりに年末の忙しなさがやってきたということでしょう。

野球も日本シリーズが終わって、そろそろ2023年(令和5年)の総集も始まるかもしれません。

さて、忘れないうちにふるさと納税でもやって、年の終わりに備えるといたしましょう。

今日はハロウィーン!

まあ、今の日本でのハロウィーンネタと言えば、渋谷のハチャメチャな大騒ぎでしょうが、ここ数年海外でも人気が出てしまって世界中からお祭りのように人が集まってくるようになりました。

まあそれだけでは問題にならないはずですが、人が集まると争いが起きて事故やけが人が出る可能性が高くなります。

特に韓国の梨泰院での惨事があってからは、人混みに対する警察の真剣度が違ってきました。

渋谷はハロウィーンの仮装会場ではないと区長が宣言して、必死に人出を抑えようとしていますが、それでも渋谷を目指すと宣言している一般人がいたり、海外からそれを目がけてやってくる人たちがいますから、しばらくは渋谷ハロウィーンは続くものと思われます。

これほど海外でも有名になったのですから、それをうまくイベントとして活かす道もあると思いますが、まだ旗を振る企業なり団体がいないからか、単なる迷惑行為として警察が事故にならないように抑えるのが必死という状況です。

世界にはリオのカーニバルやニューヨーク市のニューイヤーイベントなど、世界中で集客力のあるイベントが長い間の伝統のように形成されていますから、それと同じように渋谷を中心として、新宿などを含めて計画的なイベントとしてルールやドレスコードを決めることによって、長く続く世界的なイベントになったかもしれません。

実際、渋谷にハロウィーン会場があって、どちらかと言うと本格的な仮装を中心とした人達が集まるようになっているようですから、各エリアごとに特色を持ったイベント会場にするなど、いくらでも趣向を凝らしたものにできるでしょう。

今後のイベントとしての進化を期待したいです。

しかし、結局ハロウィーンなどどうでもよくて、公共の場で酒を飲んで騒ぐことが楽しいという人もたくさんいるでしょう。

ただ羽目を外すのが目的ですから、そのような人が満足できるようなイベントにするのは相当難しいかもしれません。(別に満足してもらう必要もないですが、、、)

役職定年制に思う

定年は雇われて仕事をしている人には付き物です。

年を取ったのでそれまでとは同じ仕事はできないでしょうということで、肩書を剥奪して給料をそれまでの3割引きにするというもの。(つまり70%に減額されるということ。)

まるでスーパーの賞味期限間近の値引きのようです。

年を取って能力が衰えるのは仕方がないことで、いくら経験が豊富だと行っても頭の回転が鈍くなったら経験を活かすことさえできません。

仕事の責務や給料の減額は当然のことです。諦めましょう。

私は55歳から給与がそれまでの5分の1になりましたから、20%や30%の減額でガタガタ言うなと言いたい!

実際企業における肩書なんて、その人が素晴らしいから与えられたものではなくて、誰かがその肩書にいないと業務に支障があるからであって、あなたがいなくなったら別の誰かがすぐに肩代わりします。

つまり企業は、古くなった細胞がになって洗い流されるように、古い人間は捨て去られる運命なのです。

そうしないと生きたままミイラになってしまいます。

生きたミイラが政治の世界や個人企業で蔓延っているのは、定年制がないからであって、適切な定年制は必要だと思います。

たとえ個人企業であっても、企業が個人でなく社会のものだとしたら定年制は必須です。

だって、年寄は判断鈍いし常識ないし身勝手だから。

だから定年後は、身勝手なことを思う存分できる自由の身になってもらいたいのです。晩節を汚すこともなくなります。

役職定年制、あなたはもう年寄りで正しい判断ができないのですから。

ニュースが多様化しすぎて煩雑になった

最近ニュースメディアの配信料を巡って、ポータルサイトと争っているという問題が報じられていました。

世界中にニュースを追って特派員を派遣しているメディアに対して、ニュースを配信しているだけのサイトが広告などで稼ぐ割に、ニュースメディアに対する報酬が少ないということだったと思います。

最近、インターネットによって20~30年前には伝わってこなかった世界中のニュースが、日本国内と同じスピードで駆け巡ってくるおかげで、日本と同じ問題を世界の国々も抱えていることを知ることができるようになりました。

その反面、あらゆるニュースがごった煮の状態になってしまって、本当に重要な事件なのか適当に流せばよい事件なのか分からなくなっています。

処理能力を超えた情報が常に入ってくるおかげで、情報を理解する時間がないうちに次々と新しい情報に書き換わってしまっていて、列車の窓から流れる景色を眺めているような状態になっています。

テレビやYouTubeでは、それらのニュースを分類してサマリーしながら解説する親切な番組もありますが、世間の出来事を鳥瞰しているような感じで、それも何か物足りなさを感じます。

以前なら遠い国の事件は、それなりの時間が経って顛末まで含めて聞き伝えしていましたから、それほど慌てて何かを考える必要はありませんでしたが、インターネットで直接リアルタイムにすべてのニュースが伝わってくると、どう処理したら良いか迷ってしまうことも出てきます。

その結果、全ての情報に対しての感性が鈍くなってしまい、何事にも動じない、あるいは世の中の動きに関心がなくなっていくような気がします。

せっかく世界中からタイムリーな情報が入ってくるテクノロジーがあるのですから、それを活かすのは大事ですが、もう少し入り口で分類する必要があるのではないかと思います。

もちろんポータルサイトで分類されていますが、情報量が多すぎて溢れてしまっている状態になってしまっていないでしょうか?(私の情報処理能力が低いだけ? うーん、そうかも知れません。)

名古屋城の木造化は必要か?

江戸時代の本物を木造建築で再現する計画が、思わぬ方向に向かっています。

そもそもコンクリート建築と木造建築の価値観の違いで揉めているところに、エレベーターの設置によってせっかく木造建築にしたのに本物感が失われるという意見と、バリアフリーを目指すべきだという意見が衝突しています。

まあいずれはどちらかが譲歩できるところは譲歩して、どっちつかずの結果に落ち着くのが常なのでしょうが、ここでもう一度文化遺産や歴史的建築物について考えてみたいと思います。

例えば絵画の場合、原画を修復したものと、レプリカしたものは明らかな価値の差があるように思います。いかにレプリカが精巧であったとしてもそういうレベルの問題ではありません。

ただ建築物については、戦争や天災で破壊された場合、絵画に比べて遺産としての価値があるように思います。

絵画の場合は、画家の筆使いやキャンバスの質感、保存状態の良し悪しが決定的に価値を持ちます。

しかし、建築物の場合は、そもそも作者たるべき大工さんが誰かも分かりませんから、「のみ」や「かんな」のタッチが話題になることはありません。

名古屋城ほどの規模になると、歴史的にこのような立派な建造物がある時代にある人物によって建てられたということが重要なわけで、本当に存在したことが歴史上証明されていれば、別に建築物としての本物感は重要でないような気がします。(あくまで個人的意見です。)

もし、木造建築でとてつもない難しい工法であったとか、世界一高い木造建築だったとかなら、木造以外で再現しても存在価値がないかもしれませんが、名古屋城を今更木造建築にしたところで、本物と同じ材料で作ったというだけであって、それほど本物に近づいたという気がしないのではないかと思います。

ということでここでの結論は、そもそも現状の名古屋城を大切に守っていけば良いのではないかと思うのです。

現状の金のシャチホコにも結構思い入れがある人達も多かろうと思いますし、今の名古屋城を建造するときもその時の最善を尽くしたのでしょうから、何もわざわざ壊してまで似たようなレプリカを造りなおす意味はないと思う次第です。