宗教とLGBTQ

サッカーワールドカップは世界中が注目するために、オリンピックと同様に様々な社会問題を提議することがあります。

今回はLGBTQを支持する腕章がFIFAによって禁止されました。

参加国が問題視する風習が開催国のカタールに存在しているということですが、余計な悶着を避けるために予めFIFAが手を打ったということでしょう。

会場内でのビール販売も宗教的な理由で禁止されて、大会オフィシャルスポンサーのビール会社が大量のビールの行き場がなくなって苦慮しているとか。

販売できないのならせめて優勝時の祝賀会でぶちまけてもらったら、勝利の酒として名が売れると考えるのは背水の陣か。

禁止されることが最初から分かっていれば大会スポンサーにはならなかったでしょう。

スポーツの場面で政治的なメッセージを出すことは禁止されていますが、開催国の宗教的に禁止されていることを、人権に結びつけて批判するのはかなり危険に感じます。

あらゆる人権が守られるべきだとすれば、宗教的な戒律の多くは人権侵害になるのではないでしょうか?

戒律を守ることによって忠誠心を示すことを人権侵害と捉えれば、何らかの制約を伴うあらゆる関係性、宗教に限らず労使関係や親子関係までもが人権侵害とみなされかねません。

また本人が納得していれば人権侵害に当たらないかというと、洗脳されている場合もあって、納得が本当に本人の意思なのか分からなくしています。

中東で開催された事によって、これまで目立っていなかった争点が掘り起こされてしまったのかもしれません。

ウォルマート銃乱射事件に考える

米バージニア州のウォルマートで銃乱射事件があったとのこと。

このような事件のあとは、アメリカの銃所有の是非が問われることが常ですが、日本でもナイフや包丁を振り回して死傷者を出す事件が茶飯事ですから、銃だけの問題ではありません。

先日、朝の通勤電車に乗っていると、隣りに座っている人がしきりにスマホを押しまくっていて、次第にスマホのガラスを叩き割るほどに過激化していました。

この人に包丁か拳銃を渡したら、少なからずの犠牲者が出るのは明らか。

特に危険な武器に関して銃刀法で規制できても、ナイフや包丁や金槌や金属バットまで規制するわけには参りません。

危険は常に隣り合わせと覚悟をして、電車に乗らなければならないご時世になったということでしょう。

これは今に限ったことではなく、公共の場所、例えば電車やバスやショッピングモールでは見知らぬ他人がすぐ隣にいるわけですから、その人がどんな心情で何を考えているか、どんな病気を持っているかまったく分かりません。

もちろん、服装や顔の表情で危険を察知することは、生きていく上で最低限必要なスキルですが、それでカバーできないほど現在は危険に満ちていると言えるでしょう。

人権保護の活動が活発化するに連れて、犠牲になる一般人が増えています。人権に寄って弱者の自由が認められることによって、一般人の生活が踏みにじられることを諦めなければならない事態が増えているように思います。

他人に犠牲を強いる人権は認められるべきでしょうか?

まだまだ社会が不完全だと思います。