性善説からの脱却

最近、回転寿司テロなどの話題が途切れることなく流れてきますが、その中で話題になるのが性善説の良し悪しです。

なぜか分かりませんが、日本人は国民として善人であるべきだという観念があって、例えひどいことを平気でする人がいたとしても、それはそれで理由があってのことと、あくまで人自身には非がないと思い込もうとする習慣があります。

「罪を憎んで人を憎まず」とは言いますが、如何にも日本人らしい発想といいましょう。

あくまで日本人には悪人はおらず、もし悪事を働いたとしてもその人の意思ではどうにもしようがない、何らかの外乱によって踏み外したというような受け取り方をしようとします。つまり更生が効くと。

何人とも仲良くしなければならないという、お上からの押し付けにほかなりません。他人事ならいいのですが、実際に被害にあった人にしてみれば冗談ではありません。実際、最近のニュースでは慈悲がない悲惨な事件が後を絶ちません。

そろそろ「みんなで仲良くしましょう」ではなく、「外に出れば100人の敵」が適切な世の中になっています。

「人間皆兄弟」とは、裏を返せば兄弟喧嘩や相続争いなど「争いごとは身内から」。殺人事件の半分は身内が犯人だそうです。

建前のみんな仲良くは通じなくなっているのですから、そろそろ性善説に従った商習慣や立ち振舞は止めて、世界標準の性悪説に立った行動が必要なのではないでしょうか?

大学全入時代

大学入試の時期も終盤になりました。すでに入学を決めている人も多いでしょうが、これから最後の踏ん張りに賭ける人もいることでしょう。

大学全入時代と言われてもピンと来ませんが、希望通りでないならば人数的には十分な大学定員があるということらしいです。

希望通りでない大学に行くことが現実的なのかどうか分かりませんが、それだけ大量に大学を作り続けて、既存の大学も学部学科を新設して定員が増えてしまったということでしょう。

大学進学率が高くなって、理系なら修士課程の大学院が普通になり、さぞかし高学歴の人が増えて社会が良くなったという実感があるかというと、決してそうは思えません。

時間をかけて教育すると言っても内容に大きく関わりますから、教育の量は増えても質が伴わない限り社会に良い影響を与えることはできません。

大学は出てみたものの、別に大学で学んだことは社会が要求していることとは一致せず、かと言って社会で評価される教養を身に付けることができたとも言えない、時間とお金の無駄であった可能性も否定できないケースも多いのではないかと思います。

日本全体としての教育レベルは変わらないのなら、以前のような専門学校や専門性が高い商業・工業高校で学んだ方が良かったと思える人も多いのではないかと思います。

企業は大学で学んだことを教養ではなく、即戦力として役立つ知識を持っていることを期待しています。

そのために若い人たちには、どの大学でどんな専門知識を得ようとしているのか、じっくり考えて全入時代の大学を決めてもらいたいものです。