エスカレーターの片側空けは良いか悪いか?

近年、エスカレーターで急ぐ人のために片側を空ける風習が広まっていましたが、危険を伴うこともあるためエスカレーターでの駆け上がり/下がりを禁止しようというお話。

もともと人が2人大人しく並んでぶつからない程度の幅で設計されていると思われ、そこを急いで駆け上がったり、大きな荷物を持っていたりするとぶつかって倒れる危険性があります。

そもそもエスカレータの上で人が移動することが、設計上許容されているのかも疑問です。結構人が歩くとガタを感じるエスカレーターも多いですから、決して機械的にはよろしくないような気もします。

それと並行して、エスカレーターに似ている「動く歩道」の場合は歩くのが正しいのか、やはり止まっていた方が良いのかという疑問が湧いてきます。

動く歩道は別名Moving Walkとも言いますが、日本語でも英語でも「歩道」と言う限りは歩くのが基本ということでしょうか?

動く歩道を歩いているうちは、エスカレーターもそれに準じて駆け上がるのを阻止するのは難しいような気がします。

いっそのことエスカレーターも動く歩道も一切歩行などを禁止するか、どちらも移動OKにするか統一しないと曖昧になりそうです。

以前、イタリアで大勢がエスカレーター上で飛び跳ねて、エスカレーターの段が一気に崩れたことがありましたから、機械的な制約があればルール化することができるでしょう。

もうしばらくは悶着が続きそうです。

JAFの要望書

日本自動車連盟(JAF)が政府に自動車の減税を要望したらしい。

自動車にかかっている税金はたくさんありすぎて、どの税が妥当でどの税がどのぐらい高すぎるのかを議論するだけで、気が遠くなる時間がかかりそうです。

50年も前のまだ自家用車が贅沢品だったころならば、贅沢のための税金ということで納得できたかもしれませんが、今の所得が増えないご時世で意味が分からない税金がてんこ盛りになっていては、何とかしてくれよという気持ちも仕方ありません。

しかも、ガソリン税にも消費税がかかっていたり、自動車税の使い道が間違っていたりしていては、これまで正しく自動車に課税されていなかったことは誰の目にも明白です。

まあぞの税金もそうですが、増税、増税という前に、増税が必要になる根拠を示さなければなりません。そんなことは、小遣いの値上げを要求するときでも当たり前!

で、その増税の根拠を示すためには、それまでの税金の使い方、つまりいくら使っていくら残ったか、足りないときはなぜ足りないかを示さなければならないのに、税金はもらった文は全て使い切って「もっとくれ!」では、旧統一教会と同じです。

自民党がばらまきも、なぜその金額なのか、なぜ切り詰めなければならないのかを説明しなければいけないと思います。

そもそも国民に説明できるほど、公明正大に説明出来る内容なのか?

老後の生活費問題で、まず家計簿をつけましょうというフィナンシャルプランナーが多いですが、国家財政についての家計簿を、国民に分かりやすく説明する義務を果たしてから、増税の議論をしましょう。(って誰に言っているのか?)

2人乗りベビーカーと路線バス

双子用のベビーカーで路線バスに乗ろうとして苦労しているというお話。

数年ごとに炎上する話題ですが、決定的な結論が出ないまま忘れ去られてしまいます。

いくつかの路線バスでベビーカー利用の案内を確認したところ、最近の低床設計のバスや広い搭乗口によって、乗車可能となっているところが多いようです。

共通した基本ルールは以下のようなものでした。

  • ベビーカーを利用しながらの乗降や、ベビーカーのベルトなどによる固定と乗車中の安全は、乗客の責任で行う。
  • 運転手はベビーカーの固定位置のバス座席を畳むことと、ベルトなどの固定器具の使用方法の案内は行う。

赤ちゃんが乗ったベビーカーを他人が扱うことは、安全上の責任が伴います。ましてや複雑な構造のベビーカーだと変に触るだけで事故につながります。保育士などの資格があれば可能かもしれませんが、それをバス運転手の業務とするのは無理があります。

乗り合わせた乗客が親切心で手伝うのはあってもいいですが、何かあったときの責任は当然負うことになります。例えばバスが急停車したときに、手伝った人が留めたベルトが外れて赤ちゃんが怪我をしたら責任は免れません。

つまり、ベビーカーを使用して赤ちゃんをバスに乗せるには、それなりの労力、おそらく赤ちゃん1人か2人なら、大人2~3人が付き添わなければ安全なバスの乗車は無理だということです。

これを社会のインフラとして準備するとしたら、介護保険のように育児保険みたいな制度を作って利用するしかないように思います。

周りに負担をかけても誰もが許してくれるほどには、まだ世間は豊かではないのかもしれません。

国民年金「保険」?

また年金の話になりますが、国民年金の掛け金を65歳まで払い続ける改正案が出されています。

国民年金を支払ための資金が足りないために、年金の支払いを5年間長く払うことが、厚生年金からの補填も含めて検討されています。

この2つの改正案は、案と呼べるほどアイディアがなく、誰でも思いつく安直な方法で、考えてひねり出した感がまったくないのが残念!

そもそも65歳まで払い続けると言っても、65歳まで働けるとは限らず、働きたくても職場がないとか健康上無理と言う人も多いでしょう。

国民年金は「保険」と言っていますが、通常の火災保険や生命保険はもしものときのために備えるもの。大多数の健全な人が少数の不幸な人のために積み立てていたお金を分配するからこそ成り立つ制度です。

年金は払い込んだ人がもれなく受け取るという、全く保険制度とは相容れない仕組みです。年金受取年齢以前に亡くなったとしても遺族年金で支払われます。

やはり保険ではなく貯金であって、自分で老後の生活費を貯金できない人のために、国が預かって貯金をしているに過ぎません。金利が高くて物価の上昇以上に増えているときはいいのですが、そうでなくなった途端に安全に運用できず役に立たない制度になります。

会社が退職金をやめて、確定拠出年金に切り替えるのは、目の前のお金は保証できても将来のお金は保証できない世の中になった証です。

国民年金と厚生年金と共済組合を含めて、今、国民全員に残ったお金を清算して配ったとしたら、いったいいくらになるのか? 試しにねんきん定期便に計算結果を掲載したら、大パニックになりそうな予感がします。

これまでも散々ずさんな年金管理がニュースになってきましたが、そろそろとどめを刺すときが来たのかもしれません。

「政治家はいずれネコやゴキブリに置き換えられる」

とまあ少しばかり過激なタイトルですが、PRESIDENT Onlineに

「政治家はいずれネコやゴキブリに置き換えられる」イェール大学助教授・成田悠輔の"政治家不要論"

という記事が掲載されています。詳しくはそちらの記事を参照していただくとして、まったくもってそのとおりだと思います。

記事の中で指摘されていることを私なりに要約すると、

  • 民主主義が崩壊している。
  • 近年選挙率が低下する一方なのは、国民が政治を見限っているからである。(そこまで断言はしていない。)
  • 民意を表現するデータを集めて、アルゴリズムで政策を決定する。
  • 政治家は人間である必要がない。

まあ、ざっとこんな感じでしょうか。

そもそも、選挙が国家運営や政治家の活動と「疎」にしか結合していないがゆえに、国民はごく限られた範囲内の選択肢しか与えられておらず、不本意な施策、勝手を極める政治家の所作を指を加えて眺めることしかできないのが現状です。

だいたい、人間に国民を公正に統治することなど、過去の歴史を見てもほとんどないと言っても良いぐらいで、歴史の授業で「昔の社会はひどかった」と教え続けられてきましたが、今も変わらないかもっとひどくなっているかもしれません。

人間は政治家に限らず権力者になってしまうと、権力を維持するために仲間内や親族で周りを固めて、反発分子を切っていく傾向があります。これは昔から変わらず普遍的です。

だから、民主主義も社会主義も一部の人間のためにだめになってしまうのでしょう。

まあ、AIが統治する国家ができたとしたら、SF映画でよくあるAIの暴走や、AIに自我が芽生えてしまって政治家と同じく我欲に突き進むかもしれませんが、、、