製品とゴミ

学生の時(40年以上前)ある雑誌に、フォードの副社長が慈善事業家になったという記事が掲載されていました。

それまで自動車のフェンダーのデザインをエンジニアとして担当して副社長にまでなった人の話です。

フェンダーのデザインはカッコ良さだけではなく、風の抵抗を最小限にして燃費の向上を図るという、エンジニアとしては非常にやりがいがある仕事です。

しかし、その副社長はフェンダーのデザインをいくらすばらしいものにしても人々はそれほど幸せになれないと嘆いて、慈善事業に転じたと言います。(まあ40年前の記事ですから、かなりおぼろげ!)

その後、エンジニアになった私は、いろいろな職場を経験しながら、概ね40年ぐらい半導体設計エンジニアとして働いてきました。そう、おそらく何も考えずにがむしゃらに。

そこでやっぱり思いましたね。

エンジニアは設計して製造して世の中の人に使っていただく製品を作るのですが、製品はいずれ寿命が来る。

たとえその製品が良い製品で、それを使った人がしばらくの間幸せになったとしても、いずれ壊れる時が来る。部分的に再生できる部品があったとしても、とりあえずほとんどゴミになってしまうわけです。

エンジニアは製品を開発して製造するけれども、いずればゴミになってしまう、確実に!

世間でゴミ屋敷が問題になっていますが、すべて元は製品なわけです。電化製品も、カップ麺も、冷凍食品も。

またその製品をゴミと化すのは人間です。人間が製品をゴミにしてしまうのか?

SDGsはそんなに簡単な話ではありません。

ところで話は飛びますが、地球から人類が滅亡して100万年も経つと、地球上のゴミは見事にもとの分子に戻ってしまうそうな。

あらゆるゴミは、時が経てば自然に帰ってしまう。

火星表面のゴツゴツ映像を見ていると、地球の100万年後の姿なのかもしれないと思うと、SDGsは時が解決してくれるのではないかと思ってしまいます。

SDGsを議論する人たちは、何年スパンの話をしているのか気になりました。

宗教とLGBTQ

サッカーワールドカップは世界中が注目するために、オリンピックと同様に様々な社会問題を提議することがあります。

今回はLGBTQを支持する腕章がFIFAによって禁止されました。

参加国が問題視する風習が開催国のカタールに存在しているということですが、余計な悶着を避けるために予めFIFAが手を打ったということでしょう。

会場内でのビール販売も宗教的な理由で禁止されて、大会オフィシャルスポンサーのビール会社が大量のビールの行き場がなくなって苦慮しているとか。

販売できないのならせめて優勝時の祝賀会でぶちまけてもらったら、勝利の酒として名が売れると考えるのは背水の陣か。

禁止されることが最初から分かっていれば大会スポンサーにはならなかったでしょう。

スポーツの場面で政治的なメッセージを出すことは禁止されていますが、開催国の宗教的に禁止されていることを、人権に結びつけて批判するのはかなり危険に感じます。

あらゆる人権が守られるべきだとすれば、宗教的な戒律の多くは人権侵害になるのではないでしょうか?

戒律を守ることによって忠誠心を示すことを人権侵害と捉えれば、何らかの制約を伴うあらゆる関係性、宗教に限らず労使関係や親子関係までもが人権侵害とみなされかねません。

また本人が納得していれば人権侵害に当たらないかというと、洗脳されている場合もあって、納得が本当に本人の意思なのか分からなくしています。

中東で開催された事によって、これまで目立っていなかった争点が掘り起こされてしまったのかもしれません。

ウォルマート銃乱射事件に考える

米バージニア州のウォルマートで銃乱射事件があったとのこと。

このような事件のあとは、アメリカの銃所有の是非が問われることが常ですが、日本でもナイフや包丁を振り回して死傷者を出す事件が茶飯事ですから、銃だけの問題ではありません。

先日、朝の通勤電車に乗っていると、隣りに座っている人がしきりにスマホを押しまくっていて、次第にスマホのガラスを叩き割るほどに過激化していました。

この人に包丁か拳銃を渡したら、少なからずの犠牲者が出るのは明らか。

特に危険な武器に関して銃刀法で規制できても、ナイフや包丁や金槌や金属バットまで規制するわけには参りません。

危険は常に隣り合わせと覚悟をして、電車に乗らなければならないご時世になったということでしょう。

これは今に限ったことではなく、公共の場所、例えば電車やバスやショッピングモールでは見知らぬ他人がすぐ隣にいるわけですから、その人がどんな心情で何を考えているか、どんな病気を持っているかまったく分かりません。

もちろん、服装や顔の表情で危険を察知することは、生きていく上で最低限必要なスキルですが、それでカバーできないほど現在は危険に満ちていると言えるでしょう。

人権保護の活動が活発化するに連れて、犠牲になる一般人が増えています。人権に寄って弱者の自由が認められることによって、一般人の生活が踏みにじられることを諦めなければならない事態が増えているように思います。

他人に犠牲を強いる人権は認められるべきでしょうか?

まだまだ社会が不完全だと思います。

米国の大量レイオフと在宅勤務

なんか最近アメリカでIT企業の大量レイオフが目立っていますね。

従業員の半分をカットするなんていう話もあって、順風満帆な成長を続けていたIT企業の採用バブルが弾けたような印象を受けます。

アメリカの企業は、業績が伸びているときは「人材こそが企業の力!」とか言って積極的に採用を繰り返しますが、いざ景気が悪くなってくると「人材はただのコストだ!」だと言い換えてやたらとカットしまくります。

それはそれで企業経営としては正しくて、カットできずに経営に影響が出てきても余剰人材を抱え続ける日本企業に比べて、よほど健全なのかもしれません。

私の前職の会社では、新型コロナの影響で本社を縮小して在宅勤務を基本としたため、オフィスには数ヶ月に1度行くかいかないかでした。

ただ、業務がソフトウェア開発だったためアウトプットが明白で期限も決まっていましたから、在宅勤務でもパフォーマンスは求められて、それほどオフィス勤務と比べて業務量・質ともに変化がありません。

よく言われる通勤時間が削減できるメリットだけを享受して、業務的には大きな変化がなかったと思っています。(思っているだけかもしれないが、)

思うに、在宅勤務は突発的に始まったので、業務と評価の定義がないままリモートのツール、例えばZOOMや事務のオンライン化ばかりが注目されましたが、実は在宅勤務のルールや評価方法を詳細に定義して徹底することをしていない企業が多かったのではないでしょうか?

その結果として、働かない幽霊社員が存在していて、在宅勤務やその評価方法がないために、幽霊社員の評価や処分ができないまま放置されているというのです。

そのうち日本でも、アメリカのT企業のような方法で人材カットを始めて、本人が知らない間に大量の幽霊社員がいなくなっているかもしれません。(怖っ!)

「一時停止違反」と「信号無視」

皆さん、交通法規で「一時停止違反」と「信号無視」のどちらが厳罰に値すると思いますか?

「とまれ」の標識で一旦停止するつもりが、徐行したまま通り抜けている車がほとんどですから、一時停止違反は大した問題ではなくて、信号無視の方が圧倒的に悪いように感じているのではないでしょうか?

まあ、信号無視にもいろいろあって、全く赤なのに無視して通過してしまう最悪なものから、黄色になってから交差点に侵入してそのまま通過してしまうようなものまであります。

最悪の信号無視はいかにも極悪非道ですが、一時停止違反と信号無視は同じ罰金、点数なのです。

一時停止が意外と重大なのか、信号無視が意外と軽いのかよく分かりませんが、とまれ標識の徐行通過や黄色信号の交差点侵入は、7~8割の車は違反していると言っても過言ではないでしょう。

だから以前警察の小遣い稼ぎは、交通量の少ない一時停止の標識がある交差点で待ち伏せするのが定番でした。スピード違反の取締のようにチームで繰り出さなくてもいいし、ほぼ止まっていますから無理に追っかける必要もない。

最近はあまりにもあこぎだということで交差点の待ち伏せは減っているのでしょうか? そのためか一時停止の遵守率は低めです。

ヨーロッパやアメリカでは一時停止は結構真面目に守っているように思います。常に神様が見ていると思っているのかもしれません。