年金の損得

「年金をもらい始める年齢は何歳が得か?」という話題が、相変わらずニュースとして展開されています。

年金は保険だから損得で考えるのはおかしいという説もありますが、世間では何となく公的年金は取られ損という説がまかり通っているせいか、年金加入で損をしないように指南する記事が目立ちます。

自動車保険や健康保険では、損得勘定を話題にすることはあまりありません。支払った以上に払い戻されないとしても、いざという時のための補償を得るためと割り切っているからでしょう。

それが保険というものです。

しかし年金となると、いくら表面的に年金保険と名乗っていても保険としての価値は求められず、若い頃から積み立てた以上に払い戻されることを期待する人がほとんどです。

これはひとえに、年金制度が若い人が払ったお金が年寄りの年金支出に使われるということが知れ渡ってしまったために、如何に損をしないようにするかに注力するようになったのが原因でしょう。

例えば、企業の退職金は年金と同様に退職者に支払われるものですが、その従業員が長い間働いてきた間に蓄積された企業預金から支払われると理解されていますから、その従業員が定年時にもらって当然という認識がどの世代にもあります。

退職金の資金がどこから捻出されているかは実際は分からないのですが、このような認識のもと、退職金であまり損得の話は出てきません。

年金は、一時資金が枯渇していると言うニュースが出てきて、国民の信頼が一気に消え失せてしまったことで、損得勘定で判断するようになったのでしょう。

年金政策はおそまつすぎて今や話題にもなりませんが、今一度年金額が最低の生活を保証するものだと諦めて、その最低生活を保証するという年金額で生活できる社会を整備することに、政治の力を注ぐことが必要だと思います。

老後2000万円が必要だなどと国の責任を放棄するのではなく、戦後年金制度を信じて頑張ってきた国民に対して、国の威信をかけて年金で生活できる社会を整備するべきでしょう。

年金制度は崩壊しているとか得か損かの算段を議論する前に、国として国民を守る責任ある仕事をしていただきたいものです。

放送も終わっている!

前回、「郵便が終わった」という話題をお伝えしましたが、それなら放送も終わっているのではないかと言うお話です。

ところで、電話というものは現在でも生活に必須のインフラの一つではありますが、その実現形態は以前と様変わりしております。

固定電話回線を司るメタルと呼ばれる電柱の上の配線は、光ファイバーに入れ替わってきましたし、そもそも固定電話が新規契約がほとんどない状態です。

以前は契約には固定回線の電話番号が必要な場合が多かったのですが、いつしか携帯電話でもよくなり、今では固定電話より携帯電話番号を記入する方が望まれるようになりました。

固定電話を持たない世帯が増え、あったとしても留守電専用です。その留守電には勧誘の類いの電話しかかかってこない様になって久しいです。

つまり、昔のような電話の形態は既に根絶していて、携帯電話からスマートホンに移行した先にはEメールやLINEやSNSなどの通信手段が溢れていて、これからも新しい技術がどんどん出てきては消え去ってしまうものなのです。

昔の技術にはもう価値はありません。

過去には主要な通信手段であった郵便が終わって、電話が終わっているのですから、放送が終わっていないわけがありません。

地上波デジタルに切り替えた時期が、放送が最後に主役だった頃だったのでしょう。

昔ならば、映像といえば放送しかなかった訳ですが、今や映像や動画と行って放送をまっさきに思い浮かべる人は少ないのではないでしょうか?

放送に限ってみても、タワーの上や山の上からアンテナで送られてくる電波を直接受信している世帯は、かなり少なくなっているのではないでしょうか?

スカイツリーや東京タワーが電波塔として利用されているのは事実だとしても、その電波の利用率は以前よりかなり下がっていて、さらにテレビ番組を見る割合も含めると、テレビへの依存度は30年前あたりに比べると激減していることでしょう。

NHK受信料を、インターネットで視聴できる装置を持った人全員に義務付けるようですが、世界中の人に契約させるのでしょうか? さぞかし世帯加入率が低くなることでしょう。

NHKはそろそろ年貢の納め時だと思います。

教員不足を一挙に解消する方法

小学校などで教員が不足して全ての学級に担任を配置できないため、兼任でしのいでいるというニュース。

新学期が始まって連休が終わり、さあこれから本格的な学校生活が始まろうとしているときに、担任不在で学級の運営がままならないとなると、学習の進捗もさることながら、精神面でのサポートなど様々な問題を抱えることにならないか、気になるところです。

私も中学3年のときに、担任の先生が盲腸の手術のため数週間休まれたことがあり、中学なので教科の先生はいらっしゃるので学習の問題はありませんでしたが、学級運営や行事に関して支障があったことを覚えています。

小学校なら学習に直接影響しますし、生徒ではなく教員不足で廃校になるなんて冗談みたいなことが起こらないとも限りません。

そもそも最近の大学生は教員になりたがらないと言いますし、以前なら小学校教員を大量に養成していた短大などの閉校が相次いでいますから、教員不足は今後も続くことが予想されます。

大学受験では、通信制の予備校が一定のシェアを保っているようです。

学習進度別に細かくクラスを分けてオンデマンドで指導できたり、全国的に優れた先生が集中的に講義を行ったりすることで、教員不足の解消、進度別クラス編成によるいわゆるお客さんの解消、オンデマンドによる柔軟な時間割編成、おまけに情報教育にもなります。

日本の情報教育が遅れていると叫ばれていますが、そもそもプログラムを本格的に書ける人は大人でもほんの一握りです。

せいぜいオフィスソフトを使いこなせれば社会人としては十分でしょうから、小学校のうちにまず情報機器を使いこなすところから始めるのは、良いプラクティスになるに違いありません。

教員不足対策、進度別クラス編成、全国の優秀な先生のオンデマンド授業、情報機器に慣れ親しむ、これら全てが一挙に解消できるとしたら教育界の革新と言えるでしょう。

文部科学省とデジタル庁には、教員不足を逆手に取って音頭を取っていただきたいものです。

IT人材は肉体労働者!

本来は「肉体」ではなく「頭脳」のはずですが、、、

日本の文系経営者(理系経営者もか?)からは、「ITやDXなんかはプログラムができる(オタクのような)やつらに勝手にやらしておけば良い」という考え方が浸透してしまっているようです。

これは日本でコンピューターが普及し始めた70年代から変わっていないように思います。情報技術者の地位や給与が低いままです。

これまでに何度か日本にも、経営的にITの重要性が注目された時期が訪れましたが、経営的なセンスは全く変わりません。

ITや情報システムは必要悪! 誰がやっても大差ないインフラのようなものという考え方が、何十年に渡って一向に変わる兆しがさりません。

確かにシステム関連専門の企業には、いかにも怪しい会社が多いのは事実。過去に大量にレイオフしたり、残業がきつかったり、給与が平均より安かったり、ブラック企業と呼ばれても仕方がないような企業が多いのも確かです。

つまり、日本の企業に対してこれからはDXが大切だといくら叫んでも、経営者がDXの価値を認めたとしても、安いコストで済ませようとします。

なぜなら彼等にとってインフラだから、DXやITで勝負できるとは思っていません。

これほどGoogleやAppleに世界中の情報利益を吸い取られていて、さらにChatGPTで根こそぎ甘い汁を吸い取られようとしているのに、いまだにITがインフラだと信じているのなら、日本の経営者は素人同然と言えるでしょう。

日本でIT専門家を育てるために、情報科目を大学入試に真剣に取り入れるとか、小学校から情報教育を本格的に取り入れるとか、そのために小中高で情報をまともに教えられる教師を養成するとか、、、

おそらく30年前に取り組んでおかなければならなかったことばかりです。

根本に、士農工商で農民が汗水流して働くことを美徳とした歴史があるからでしょうか?

その割に最近従業員の給与が上がらないのが問題だと言いながら、下手な経営で利益が出ていないにも関わらず、経営者の給与だけは米国ばりにうなぎのぼりです。

元来日本人は、海外からの指導(干渉)がないと、自身では社会を改善できない欠点があります。

ならば、海外留学経験者や海外からの批判を素直に受け入れて、その考えを日本なりに昇華させる必要があるでしょう。

「DXはどこかの肉体(頭脳)労働者に任せておけば良い」だけで済まさずに、もっとまじめに取り組む必要がありそうです。

子どもの声は騒音か?

「子どもの声は騒音ではない」を法律化する可能性を検討するとか。

何が騒音で何が騒音でないかは、なかなか定義が難しいものです。うるさいと感じるのはその人の感覚次第ですから。

音楽が好きな人は、ピアノなりバイオリンなり、エレキギターの音に聞き耳を立てるでしょうし、飛行機好きの人は空港の騒音が好きだという人もいるでしょう。

ただ好きな音だとしても、意図しない時や四六時中その音の中にいられるかというと、また話は別です。特に長時間続く騒音は体験してみないとなかなか理解できないでしょう。

街の中の公園が、子どもの声がうるさいという苦情によって閉鎖されたというニュースがありましたが、それも程度の問題で、本当にうるさかったのかも知れませんし、過剰な反応なのかもしれません。

政府関係者の話として、ドイツでは子どもが発する音は法律で騒音とは見なさないと決められているそうです。

世界標準化を目指す政府としては、ドイツを見習って同様の法律を制定しようとするのでしょうが、日本とドイツや西欧諸国とは少し文化が違います。

一般に西欧諸国では、子どもは小さいときから社会人としてのマナーを教えられ、公共の場での所作には厳しい傾向があります。

よく親が子どもに”No screaming!”と叱っている場面に出くわしますが、公共の場で子どもが不必要に騒がないようにしつけています。

日本みたいに「キャー」とか「キー」を公共の場で連発する子どもなんかいません。(本来「キャー」は危険な目に遭った時以外は禁止です。)

日本を始め、アジア諸国は文化的に子どもは宝という考えがあるのか、概して子どもに甘いです。特に身内に対して甘過ぎる!

自分の子どもが他人に迷惑をかけても平気な親が多いです。

法律の前に、まずしつけ!

そうすれば法律なんかで決めなくても、子どもの声が騒音なんて思う人はいなくなるのではないでしょうか?