協会けんぽの40万人がマイナンバーに紐づけできず

朝日新聞DIGITALに「マイナ保険証、40万人ひもづけされず 利用できない状態」というニュースが掲載されています。

最大規模の健康保険組織である協会けんぽで、本人から申請されていないなどの理由によって、約1%に当たる40万人のマイナンバーが紐づけできていないというニュースです。

40万人分というとすごく多いように感じますが、1%だと聞くと少ないように感じます。

40万人のうち、マイナンバーカードを発行している人の割合も気になるところですが、このニュースを聞いて気になったことがあります。

よくマイナンバーカードと健康保険証の紐づけが問題になりますが、健康保険証は一生同じ番号であるわけでなく、退職や転職によって割と頻繁に変わることがあります。

転職をしなくても、健康保険制度が変更されるだけで健康保険証自体が再発行される場合がありますから、かなり多くの人が毎年のように新しい健康保険制度に移り変わっていることでしょう。

特に最近は転職が珍しくありませんし、扶養家族が増えた・減ったときにも入れ替わりがあります。

自動車免許のように新しく資格が増えても同じ免許番号が継続されるなら、紐づけをやり直す必要はありませんが、健康保険は就職、転職、結婚、退職などの人生の転機ごとに加入先が変わる可能性が高く、その度にマイナンバーカードへの紐づけをやり直さなければなりません。

その手続きを忘れたり申請に時間がかかったりすると、現在と同じ問題が頻発することになりかねません。

そもそも、転職などによる健康保険証の再発行には今でも月単位で時間がかかっており、その上に紐づけのタイムラグがあったりすると、これまた医療機関で健康保険証として使えないマイナカードになってしまいます。

政府がマイナンバーカードに統合する相手を間違えたのは明らかで、少なくとも統合する順番はもう少し熟考するべきだったのではないでしょうか?

政府がそれを承知で健康保険証をマイナカードに統合しようとしているとしたら、国民の便宜性以外に健康保険証を統合する目的があったのかもしれません。

今問題になっている健康保険とマイナカードの紐づけ問題は、結局いつまで経ってもスッキリ解決はしないのだろうと思う次第です。

増税には理由が必要ではなかろうか?

勤続30年で受け取れる退職金が2500万円の場合、今後最大45万円受取額が減少するらしいです。

20年以上継続して勤続する人に対する税の優遇措置が廃止されるために、退職金にかかる所得税が増額されるということのようです。

政府は老後の生活費は自分で貯めておけと言っている割には、老後資金の要となる退職金に増税するとは、言っていることとやっていることが違います。(よくあることですが、)

ニュースで増税の話を聞くことは年に何十回とありますが、「税をこんなに有効に使いました!」とか、「ちょっと工夫をして税金の支出をこれだけ減らしました!」というニュースは一度も聞いたことがありません。

世の中は、多少過剰に支出をすることがあってもどこかで節約して、平準化したらあまり変化がないようにするものです。

例えば、夏休みに遠方に旅行に行ったとしたら、その贅沢を穴埋めするために平日の食事は質素に抑えるということは、どこの家庭でも心がけていることと思います。

ところが日本の政府といったら、頻繁に税金を引き上げることばかりに専念して、一向に税金の使い方に知恵を絞ることをしません。

この際、税金の増減はポイント制にして、税金の支出を削減した分だけしか増税できないようにするのはどうでしょうか?

税金は国内通貨だけで計算が間に合いますから、複雑な為替の計算で誤魔化すことはできないでしょう。

単純に同じ予算で国を運営すれば良いだけですから、普通なら簡単なはずです。バランス感覚の問題です。

増税を頻繁に繰り返す様は、農民から年貢を搾り取っていた時代と何ら変わりません。

もう少し明朗な会計を国民に公開して、公明正大に税金の使途を説明してから、それでも足りないから増税が必要なのだと訴える必要があるのではないでしょうか?

はみ出し禁止

電動キックボードが認可されて、16歳以上に無免許で許可しながら自賠責保険が必須としたことは、今となっては保険会社への忖度があったのではないかと疑われそうですが、とりあえず大きな事故のニュースがないということは、それほど無茶な運転をする人が今のところいないのか、まだあまり普及していないだけなのか?

自転車に比べて小さい前輪径によって、道路の段差で転倒する危険性が指摘されていましたが、そのときに各戸に道路の段差を解消するための配置したスロープが邪魔になるという問題がありました。

特に夜間など道路上に危険な突起があると認識しないまま道路脇を走行して、段差で転倒して走行中の車と接触すると大事故につながりかねません。

そもそも個人所有の建造物を公共の道路に設置することは以前から不法行為であり、住宅などは一切の部分も道路上に(空間も含めて)はみ出すことは許されてはいません。

外構を工事する業者は、一切のはみ出しをしない施工をするのが常ですが、法遵守にいい加減な業者が施工した外構には、分かって道路上の空間を専有しているケースが散見されます。

更に道路上に、例え使用上の必然性があったとしても、個人所有の建造物を置くことは許されません。

20年ほど前、道路にはみ出て設置された自動販売機が、一斉に道路占拠違反で規制されたことがありました。1年ほどで国内の自動販売機から道路占拠はなくなり、日本の実行力も大したものだと思ったことがありました。

今回も電動キックボードが発端ではありますが、道路占拠物件の一掃を目指すべきではないでしょうか?

インバウントと称して海外から訪日する観光客は、簡易な移動手段として電動キックボードを利用することが増えるかもしれません。

その時に、世界の常識から外れた道路の私用が原因の事故が起こると、また世界から非難されるでしょう。

日本国内にはまだまだ世界の常識から外れた習慣や法規が溢れています

インバウンドで国内消費が伸びることばかり喜んでいないで、この機会に日本の古いないがしろにしてきた習慣を近代化してもらいたいものです。

組織の自浄作用

日本大学のアメリカンフットボール部の問題で、大学に自浄作用が働くのか疑問を呈する記事が相次いでいます。

これまでにもいくつかの問題点を指摘されながら、表向き代表者の交代が繰り返されただけで、本質は何ら変わっていないとの疑念が漂っているのでしょう。

同様にビッグモーターのトップが問題発覚後交代しましたが、社内改革と称して真っ先に取り組んだLINEの使用停止も、ブラック企業の証拠隠滅が目的だとの指摘されました。

過去にも企業や政治組織や宗教法人など、大学以外の組織的犯罪が発生した後、浄化するにはかなりの長い時間と労力を要することがほとんどです。付け焼き刃の対策ではなく、元を絶たなければ意味がありません。

それだけ時間と費用もかかるのなら、最初から正しておけば無駄なことをしなくても済んだと考えがちですが、それはどうでしょうか?

そもそも人間は楽な方に安易に流されますから、それを組織が束縛することである一定の基準の品格や順法意識を保っているのではないでしょうか?

もちろん個人でも品性を保っている人も多いですし、組織でも崩れきっているところもたくさんあるでしょう。

しかし、基本的に組織になればそれなりの社会性を保とうとする修正力が働きますから、事件になる前に摘み取られる事が多いと思われます。

ですからよく「性善説」、「性悪説」と例えられますが、個人レベルでは性悪説が成り立ち、組織では性善説が成り立つというのが自然なような気がします。

個人を尊重する欧米諸国が性悪説を社会の基本と捉え、個人より組織を重んじる日本が性善説に根ざしているというのも頷けます。

組織によって個人を律し、世の中のために正しいと思われることを経営理念やスローガンとして唱え実行することが、組織としての統制となり力となって行くのでしょう。

不祥事を起こした大学や企業が急に理念を唱えだしても、「馬の耳に念仏」にしかならないでしょう。

しかし、時間がかかったとしても倫理や道徳の概念が失われつつある日本社会で、お手本となるべく立ち直った姿を見たいものです。

「そこに愛はあるんか?」

ビッグモーターの保険金不正請求事件。

車の修理に携わる人なら、少しは車に対して愛がありそうなものです。いくら売上を増やすために上司から命令されたとは言え、さぞかし悲しい思いでやっていたことでしょう。

朝日新聞の記事で、車は「愛車」というぐらいに特別な思いを持って所有するものであると書かれています。そう言えば、それほど愛~という表現は多いわけではなく、「愛車」、「愛妻」、「愛社」、「愛国」はあっても、「愛スマホ」、「愛時計」などはなく、せいぜい「愛用のスマホ」や「愛用の時計」というように、少し愛のレベルが下がるような気がします。

家を建てても「愛家」にはならず、「我が家」や「終の棲家」というように愛とはまた違った感覚で表現しているように思います。

今では「愛社」や「愛国」にどれほど意味があるのか分かりませんが、車には一緒に出かけた思い出が詰まっていて、少しペットに近い感覚があります。

昔一世を風靡した「愛のスカイライン」というキャッチフレーズがありましたが、それぞれの人生の一コマを一緒に歩んだ軌跡が刻まれていて、年配の人なら所有した車の遍歴が人生を転機を如実に物語っているのではないでしょうか?

「いつかはクラウン」というフレーズも、90年代ならそのままほとんど人が受け入れていたのではないでしょうか?

レクサスが登場したあたりからややこしくなりましたが、パブリカ→カローラ→コロナ→マーク2→クラウンという階層構造が、日本の社会や人生設計をそのまま反映していたように思います。

今は車に愛を感じる余裕などないのでしょうか?

すべての大量消費や使い捨てを、地球規模で止める時期が来ています。