痴漢と非常ボタン

2024年年明け早々悲惨な事件が発生して、被災された方々には謹んでお見舞い申し上げます。

さて、東洋経済オンラインに「電車で痴漢にあったら『SOSボタン』押していいのか」という記事が掲載されています。今も昔も著しく人権を踏みにじっている痴漢撲滅に、非常ボタンを使用しても良いのかという疑問です。

鉄道各社へのインタビューでは、痴漢発生時の非常ボタンの使用は推奨されているようです。

しかし、実際の状況で非常ボタンが近いところにあるとは限りませんし、あったとしてもそう簡単に遅ことはできないでしょう。押せば乗務員と会話をするわけですが、そこで痴漢されているということを果たして当事者が説明できるでしょうか?

近隣の方が代わりに説明すれば良いのかもしれませんが、そればら他の人が痴漢に気付いた時点で何らかの手助けが可能でしょう。

あるいは、都会の通勤電車で数千人が乗車しているところで、一体何件の痴漢事例が発生しているでしょうか? 同時多発的に痴漢が発生していて容易に非常ボタンが押せる状況なら、おそらく電車がまともに進行できる状況ではなくなるかもしれません。

なんとなく実際の状況を無視した想定のもとで、非常ボタンの仕様について論じているように思います。

混雑時の痴漢問題は、昭和の時代から放ったらかしになっていて、やっと世間の機運が撲滅に進もうとしていますから、実現できる有効な対策を目指して行けたらと思います。

パソナからの情報漏洩

パソナの契約社員が国の基金に関する企業や個人情報を持ちだしたというニュース。

パソナという企業のリテラシーのなさは周知の事実なのですから、そのような企業にいつまで業務を委託し続けているのかと疑問に思う方は多いと思います。

「とっとと契約を切ればいいのに」と。

まあ何らかの癒着があるにせよ、国民に日本のだらしなさを見せ続けることが、日本が堕落したと言われる理由の一つかもしれません。国民もルーズな管理に慣れてしまったということです。

LINEを国民への重要なインフラと認めようとしたり、マイナカードなどの重要なシステムを国外に保存することを見過ごしたり、日本がやることなすこと抜けが多すぎていちいち指摘する方が疲れてしまいます。

これが国民性ということでしょうか。極東の島国ならこうなっても当然なのでしょうか?

2025年大阪万博の木製ループを保存できるか?

建設費が無駄だと避難された大阪万博の木製ループ。

シンボルとしての意味や日除けになるといった目的が発表されて、なおさら無駄さが目立っていましたが、それを受けて今度は万博後も保存すると言い出しました。

保存するからと言って全体の建設費が安くなるわけでもなく、後から敷地を使用すると見られるカジノがお金を払ってくれるわけでもありません。

ただ無駄と言う意見を抑えるためだけの、思いつきのアイディア(アイディアはたいてい思いつきですが)にすぎませんが、1970年の大阪万博でも同じ事がありました。

1970年の万博では、開催前は太陽の塔と大屋根、日本館と鉄鋼館が保存の対象になっていて、たしかに今でも太陽の塔と鉄鋼館は姿を確認することができますが、大屋根と日本館はメインテナンス費用が掛かり過ぎて、開催後10年ぐらいで撤去されました。

大屋根については、一部切り取ったものが今でも旧お祭り広場の片隅で展示されていますが、日本館は跡形もありません。

つまり保存したいということと、保存することができるというのは別だということです。

とりあえず現在の建設時にでる反対意見を抑え込むために、開催後の保存すると言っておけば良いというのなら、少なくとも開催後のメインテナンス費用を毎年予算として計上できることを説明しなければなりません。

特に世界最大の木造建築を目指していますから、そのメインテナンス費用たるや並大抵のがくではないはずです。

国立競技場の木造の屋根でさえその耐久性に疑問がありますが、外周2Kmにも及ぶ木製ループが、開催後10年以上のその場に留まるとは思えません。

SDGsを標榜する2025年大阪万博は、相応しい継続性を証明する必要があると思います。

自由経済と人手不足

競争によってより進化したよりよいサービスが提供できるようになり、その結果サービスを提供する側の生活も向上する。

みたいなことがまかり通ったのは、自由に競争することが経済をうまく回せていたころの話で、サービスの数が増えて提供する人が相対的に少なくなってしまうと、競争どころか提供すらできなくなってしまいます。

最近のタクシーや宅配業界、これらに限らずあらゆる業界で人材不足、労働力不足が叫ばれて何年にもなります。

人口が減少傾向であってもサービスの数が増えていった結果、オーバーヘッド部分が多くなっているのではないかと思います。

そこで、ヤマト運輸と郵便局が集配センターを共同で運用するなどの方策が登場して、結果としてサービス数の減少という事態になりつつあります。

要するに、同じような内容の少しだけ違うサービスが乱立した結果、ユーザーも選択に苦慮してしまい、サービス提供者も無駄な労力とそれに伴う経費が増えてきたということでしょう。

ITや機械化によって省力化が図られているとしても、その進化では追いつかないぐらい複雑化した社会になっているような気がします。

これからは自由に経済活動を行うにしても、何らかの存在価値を見いだせないものは、社会を複雑にするだけで進化を止めてしまうこともあり得るでしょう。

子育てで自由放任が何でも良いわけではないように、自由経済にももう少しルールが必要なのかもしれません。

豊かさとビッグマック指数

日本の賃金が上がらずどんどん貧しくなって行く。

ビッグマック指数なる経済指標らしく振る舞っている数字がありますが、日本のビッグマック価格は世界でも最低水準で、日本は貧しくなったと言われています。

90年代は全く逆で、当時はそれほどビッグマックは世界的な標準品ではなかったと見えて、マックバーガーやチーズバーガーの値段が比較されていたように思います。

当時は世界中で日本のバーガーがダントツに高く、軒並み3倍ぐらいの価格差で販売されていました。

その結果、日本の新聞には日本の物価の高さを問題視する記事が溢れ、同様に東京とニューヨーク市のホテルレストランのビーフステーキの価格を比べて、日本の法外な高さを憂いていたものです。

当時のドルが90円から100円ぐらいで、円高の影響が大きいのは当然ですが、それより当時の日本ではホテルのステーキは言うに及ばず(今でも高いが)、マクドナルドのハンバーガーもそれほど大衆的なものではなかったのです。

その後、100円マックや250円の牛丼が登場して安い外食が定着しましたが、ビッグマックを経済指標にするのは少し問題があるような気がします。ましてやホテルのレストランでビーフステーキを食べることなど、経済の指標にならないでしょう。生活からかけ離れています。

つまり、価格が高いことを示すためには高い目のものを比較対象にして、安いことを示すときは安そうなものを比較するのです。これをあまり真面目に討論しても意味がありません。

ビッグマック指数などを経済の指標としているうちは、正しい経済活動を語ることができないと思います。

本来の経済指標としては、もっと家計の実際の動向やその食品の利用頻度や満足度などを考慮しなければならないでしょう。