コーディングは単純作業か?

ヤマト運輸のDX推進担当の偉いさんが、「コーディングは単純作業だから、アウトソーシングすれば良い」といった内容を話したとかで話題になっています。

DX担当にしてコーディングは単純作業とはよく言ったものですが、要するに誰がやっても同じだから、外注して安い労力を使っていれば良いと言いたかったのでしょう。

しかし、コーディングをやっている人にはそれなりの美というのがあって、苦労した結果美しいプログラムソースができたときの喜びは、経験したことがない人には全く想像もできないかもしれません。

確かに一つのソースコードで経営に影響が出るほど違いはないかもしれませんが、情報漏洩などの会社経営に致命的になる欠陥もソースコード一つですから、単なる力仕事とは言い切れません。

よく地中の水道管やガス管が、施工の欠陥で大事故を起こすことがありますが、コーディングも簡潔でエラー処理が完璧でメインテナンス性も良いものは、普段から心がけていないとなかなか作り込めるものではありません。

コーディングの品質を把握するには、外注する場合でもそれなりにコードレビューをする必要があります。

将来のヤマト運輸のDX戦略の失敗が目に見えるようです。

ガスコンロとSDGs

世間では当たり前のようにSDGsと唱えていますが、実際のところはどうなんでしょう?

数十年前なら、街の電気屋さんがはんだごてや真空管セットを持ち歩いていて、家庭の家電ならテレビからラジオから電球から電線まで、ってほとんど単純な家電しかなかったのか!(ただし今から見ればの話。当時はそれなりの高度な技術だったはず。)

簡単な機器ばかりだったから、街の電気やさんがありきたりの道具だけで修理できたのでしょう。

今は、家電と言っても中が見えない電子部品の塊になってしまっていて、ちょっとやそっとの電気知識では修理どころか点検さえも難しいのでしょう。

自動車についても同様で、私が若い頃なら中古の車のボンネットを休日ごとに開けて、プラグのギャップを調整したり、ポイントを磨いたりするのが楽しかったのですが、最近の車はそのようなことができるのは、相当の設備を持ったプロだけになってしまいました。

前回、ガスコンロを交換したお話を紹介しましたが、実はその前にバーナーの一つに付いていた温度センサー部が壊れて交換しようと試みたのです。

インターネットで調べると、機種ごとの温度センサーの型番を調べられ、通販サイトで購入することもできました。センサーの値段は数百円ですから、十万円以上するコンロの交換に比べれば桁違いのローコストで直れば儲けもの。

ところがどっこい、トップのガラスを取り外したら、温度センサーがガッチリと固定されていて、破壊しなければ取り外せないようになっていました。機種の販売時期によっても変わるのかもしれませんが、基本的に温度センサーを交換するのは無理そうでした。

温度センサーを交換しても、温度を制御する基盤が壊れたらもっとお手上げですし、なかなか修理しながら使い続けることは困難だと思いました。

まあパソコンのように部品ごとに規格が決まっていて、サイズや規格が同じであればどのメーカーのものであっても交換できるようにできるのでしょうが、それではメーカーごとの差別化ができなくなります。

SDGsを訴えれば訴えるほど現代の生活に矛盾が生じてしまい、それを否定しなければ達成できないように思います。

つまり非現代的な生活に戻れば、SDGsは自然に実践できるのでしょう。

はやりのキャンプをもっと実践して、テントを終の棲家にしますか?(ただし水道と電気コンセントがないサイトに限る。)

ガスコンロの交換

昔は家庭の設備の中でコンロと言えば、最も単純で壊れにくいものでした。まあ水道栓と同じぐらい頑丈だったのではなかろうかと。

しかし、ご多分に漏れず昨今は電子化が進んでまいりまして、タイマーや温度センサーが装備されてくると他の家電並みに壊れやすくなってきました。

というわけで、我が家の10年選手のガスコンロも、温度センサーの異常で着火できないバーナーが出てまいりまして、特にガス機器の故障は危険な事故が発生する可能性がありますから、比較的速やかに交換する決心がつくわけです。

ですが色々新しい機種を調べてみますと、10年前よりさらに高度な機能が付け加わっておりまして、外観はほとんど同じでも機能と価格に大きな差があったりします。

その新しい機能というのも、炊飯機能だったりケーキを焼く機能だったり、まだ全体を把握できておりませんが、炊飯器やオーブンでしかできなかったような機能がてんこ盛りになっています。

つまりガスコンロの進撃状態になっているのですが、当然オーブンレンジもガスト電気の両方のエネルギーを駆使して調理器の王様の地位を目指していますし、炊飯器も米だけでなくおかゆやシチューやこれまたケーキまでもが守備範囲になっています。

つまりそのどれか一つの調理器具があれば、少しの工夫でほとんどの料理に対応できるようになっているのです。

昔SFで見た全自動調理器も近づいているように思いつつ、新しいガスコンロの点火方法が分からず説明書を読み始めるのでした。

国策半導体会社はおそらく失敗する

政府が投資して新しい半導体設計会社「ラピダス」を作るというお話。

50年ぐらい前にコンピューターでも同じことをやって、うまく行った記憶がある人が言い出したのでしょうか? (本当にそれがうまく行ったかどうかは、今更分からないですが、、、)

国内の半導体メーカーが危うくなったときから、何度も国の支援で半導体企業の再生を試みてきましたが、誰の目から見ても税金の無駄遣いだったのではないでしょうか?

いくら税金を投入してテコ入れしても、それまでに半導体企業で失敗した経営できない人たちに任せても同じ轍を踏むだけ。

それこそ一気に異なる分野の人材をトップに据え付けて、例えば日航の復活に貢献した稲盛氏のような大胆な人事を行わなければならないでしょう。

そもそも、台湾TSMCを誘致して工場を作っている最中に、さらに別の半導体設計会社を作ってそれにも投資をすると言います。

TSMC、つまりファウンドリーは製造会社で、他社が設計したマスクレイアウトを受け取って半導体チップの製造を請け負う企業であり、かたや今回話題の「ラピダス」はマスクレイアウトを作る半導体設計会社です。

これら2つを同時の分野で世界に打って出るには、20年遅かったように思います。手に負えなくなった日本メーカーのメモリーやロジックチップ部門を合体させたときにしておくべきだったでしょう。しかも投資金額が小さい。

特にラピダスに出資参加する企業は、昔の半導体企業懇親会だったSTARCと同じノリで参加しているとしか思えません。とりあえず乗り遅れないように参加費だけ払っておこうと。

半導体設計はいわば企業の秘密の塊ですから、1つの企業ですべての企業の設計を引き受けるということにはならないでしょうが、おそらく高騰する半導体設計ツール、例えば何億もするCadneceやSynopsysのツールを共同で所有すれば安くなるという算段が、今回の提携の本音のような気がします。

まあ今後の追加投資と本気になるかどうかで成否が決まるでしょうけど、投資額も本気度も十分だとは思えません。「ばらまき」の一つで終わらなければいいのですが。

ニッチもサッチもいかない多様性

「ニッチもサッチもいかない多様性」 なんのこっちゃ?

要するに、世の中が多様化しすぎたために、それを維持するためのコストが高くなってきているのではないかということです。

多様性の時代と言ったのはもう何十年も前のこと。でも本当に現代は、多様性が広がりすぎて何がなんだか分からない世界になっています。

80年代に日本の規格のビデオが世界を席巻した時、メディアと呼ばれたビデオテープの規格はVHSやベータとして世界中で勢力を二分していました。

2つならアメリカの政党みたいに比較しやすいです。日本は政党が多すぎてどんぐりの背比べになりがちです。

とにかくメディア戦争と呼べるぐらい、日本発祥の工業規格が世界中でしのぎを削っていた時代があったのです。

その前にはカセットテープ、その後にはCDや光ディスク、DVDなど、メディアを牛耳った企業が世界を席巻する時代が続きました。

メディアとは今では記録媒体として理解されていますが、本来はもっと宗教的で本質的な意味を持っていました。

その前はカセットテープでしょうか? 昔は開発の速度がゆっくりしていましたから、10年20年単位で技術が入れ替わっていましたが、80年代ぐらいから加速度的に開発速度が速くなってきて、DVDが出てからはメディアを創出する価値が相対的に低くなってしまいました。

以前がニッチという言葉が頻繁に使われましたが、ニッチ狙いが度を過ぎまして、最近はニッチと言えるほど隙間がないぐらいに技術が広範囲に広がってしまい、新しい隙間を狙うのが困難になっています。

画像転送の技術や暗号化の技術など、少しずつ異なった優位性を持つ技術がひしめき合う時代になってしまいました。

プログラミング言語も次々と誕生し、様々な用途でそれぞれ特化した言語が普及していて、どの言語がメジャーなのか、初心者が今から学ぶなら何が良いかという質問に容易に応えられる状況ではなくなっています。

技術や社会が同じ方向に向かっていた時代が終わって、多様化が野放しになってしまっているのです。

これまでのように、何でもランキングで1位から10位まで並べるといった簡単な比較は意味がなくなって、用途、目的、趣味等によって多様なランキングが論じられるようになったということでしょう。

それはそれで単一化された価値観より、社会が進んだということなのかもしれませんが、単純に社会を一つの論点で論ずることに意味がなくなっています。

そろそろ多様化した社会の整理を考えなければならない時期が来ているのではないでしょうか?