電動工具は脱炭素か?

脱炭素化に向けて電動工具が普及するというお話。

カーボンニュートラルと電動工具がなぜつながるのかというと、これまでエンジンで駆動していた草刈り機やチェーンソーを充電池による電動工具化して排ガスをゼロにすることで、温暖化ガスの排出を減らそうということのようです。

京セラが子会社のリョウビを通じて欧米諸国に電動工具を拡販していくというそうですが、同じく電動工具メーカーのマキタも、電動工具を脱炭素化の切り札と考えているそうです。

従来、欧米では手持ちの電動工具が日本より広く普及していて、ドイツなどではジグソー一つで家を建ててしまう人がいると聞いたことがあります。

ですから海外には有力な電動工具メーカーがたくさんあり、ドイツ製やスイス製のボッシュはジグソーの開発メーカーとして有名ですし、米国にはDewalt、PORTER-CABLE、Black and Decker、Craftsmanなどがありました。

もとより欧米では自宅のリフォームは家族でやってしまいますから、電動工具とその他の建築資材はHome Depotなどのハードウェアストアに揃っています。

日本でも最近はホームセンターが人気で、その気になればかなり大掛かりなものでも素人で作れるぐらいの工具と材料が売られています。

以前なら電動工具はマキタ、日立、リョウビが3大メーカーでしたが、 その後合併などで勢力に変化があるようです。

ただ電動工具本体だけでは切ることも穴を開けることもできません。

日本は刃物で有名な産地がいくつかあって、それらの産地で優秀なドリルビットやのこぎりのブレードが作られるからこそ、日本の電動工具の優秀さが引き立つというものでしょう。

最近はあまり日本から輸出できるものがなくなってきて、貿易収支が赤字になったりしていますが、電動工具と優れた刃物の合わせ技で、日本の電動工具が世界を席巻するようになってもらいたいものです。

度が過ぎ始めた社会

SNSやYouTubeで羽目を外した登校や動画が炎上する事件が相次いでいます。

まあ別に公開したから社会問題になっているわけで、昔から公開せずに同様の悪事を働く輩もいたでしょうから、悪い人が増えたかどうかは炎上の数と一致するかどうかは分かりません。

悪いことを公開してこんなに大問題になるとは思わなかったというのが、多くの犯人の言い訳らしいですが、確かに悪いと分かっていれば隠すのが普通でしょうから、全く悪いことだとは思っておらず、ウケて喜んでもらえると勘違いしたのでしょう。

ウケを狙ってコケることはよくあることで、別コケても悪事でなければただ自分がコケておしまいなのですが、公共の衛生問題に関することは問題が大きくなって当然でしょう。

ももうほとんどまともなウケ狙いではウケてもらえず、どうしても度を過ぎてしまうのでしょう。これはテレビ番組や映画の世界でも、以前は扱わなかったような際どいテーマや話題が取り上げられることはあります。

コンテンツ不足というのでしょうか、何か突飛なことでもしでかさないと振り向いてもらえないという状況は、情報過多の社会では起こらざるを得ないのでしょうか?

香辛料に慣れてくると、もっと辛いものを要求するようなもので、もっと落ち着いた情報、ホッとするような穏やかな情報や話題で、奥行きがあって深いものを求めるようにならなければならないのかも知れません。

テレビ番組の内容がどんどん過激化して、ある意味社会全体がオタク化して普通の感覚から外れてしまっているような気がします。

もちろん文化や伝統は、少し外れた新規性から生まれるものかも知れませんが、それを熟成することなくすぐに飽きてしまいまた別の刺激を求めることを繰り返した結果が、昨今の社会問題として吐出しているのではないでしょうか?

知的好奇心をくすぐりながら、上品な文化を導き出すような情報リテラシーの発案を待ち望んでいます。

いつからシステム部門を外注するようになったか?

いくつかの企業で働くようになって驚いたことの一つに、インターネットの利用があります。

インターネットというと「インター」と付いているから何となく「インターナル」をイメージして内側にあって安全なもののように感じませんか?

しかし、実際は完全な「アウト」ですから、そこに何が潜んでいるか全く分かりません。

以前いた企業では、社内のメールは専用回線でやり取りしていたので、VPNで安心して社内のメールをやり取りしている企業は大丈夫なのかと思ったことがあります。

メーラーも無料で使えるアプリケーションを自由に使っていて、それでは社内の機密を守れるはずがないと思ったものでした。

それがベンチャーや中小企業がやっているならまだしも、世界に名だたる電機メーカーやコンピューターメーカーでさえそのような体制ですから、日本企業の企業機密がダダ漏れでも仕方がないなと。

更に最近になって、企業のシステムをAWSのクラウド上で構築する動きに加えて、政府のシステムもAWSに乗っけるという大胆さ!

国内に有力なクラウドサプライヤーがいないから、仕方がないというのは分からなくはないですが、それならクラウド以外の方法を選ぶべきですし、LINEを使った公共システムの計画に至っては、政府はセキュリティについて何も考えていないのだなと逆に納得してしまいます。

コンピューターを使ったシステムが生活に深く入り込んで、それほど普段意識をするものではなくなってきているのは確かですが、それだけ生活を脅かす機密漏洩が起こりやすくなっているのですから、データの管理体制はクラウド任せにせず、二重三重に厳重な監視ができるようなシステムを組んでもらいたいものです。

H3ロケットの発射中止

H3ロケットが、固定燃料ロケットに点火しなかったために発射が中止されたとのこと。

中止と失敗の違いについて議論になっていますが、とりあえずやり直しがきくのが中止で、やり直せないのが失敗ということで納得しましょう。

国産ジェット旅客機開発が中止になった後ですから、派手に飛ばしてもらいたかったところですが、点火しなかったら仕方がありません。花火でも点火しないことは多々ありますから。

確かに飛行機や新幹線なら時間通りに運行することは大切で、スケジュール通りに飛んでいる割合が航空会社の評価の一部ですから、時間通りに運行することは重要です。

しかし、ロケットの場合は飛ぶ時間が重要でなくて、飛んだ後に軌道に正確に乗せることができるかとか、計画通りの軌道を描いて飛行することがより重要ですから、今回のように飛ばなかったのはそれほど計画では重要な意味を持っていないことは納得できます。

どうも一般人的には新幹線のダイヤと同じような感覚で、成功か失敗かを判断してしまうのでしょう。

物事には必ず満たさなければならない条件と、満たす必要なないけれども必然的に決めて置かなければならない時間や数値というものがあります。

例えば宿題をやるのにいつまでにやらなければならないという事が重要で、それに何時間かけるかは気にしない場合があります。

今回のロケットの発射にしても、その時間に打ち上げることは天候的に必要ではあったかも知れませんが、別に次の日でも3日後でも構わないのです。

おそらく、いつまでに成功させなければならないという別の日程があって、その保まで成功させるための発射日が今日だっただけで、その日に成功させる意味は殆どないのでしょう。

まあ、少し前まで日本は自称技術立国でしたから、失敗は許されないのでしょうが、今回は失敗ではなくて中止ということで、暫く待つことにいたしましょう。

話は戻って、新幹線の雪による運休が続いておりますが、これも雪で止まっているからまだよいので、雪で脱線したらえらいことです。

計画が思い通りに行かないこともありますが、それらをすべて失敗と嘆くのではなく、影響が大したことでないなら、あえて中止と言ってじっくり準備をやり直すことが必要なのかも知れません。

クリエーティブな仕事って本当にクリエートしてる?

昨日、これからはChatGPTがインターネットサイトを全部検索して、まとめて整理して回答を出してしまうのでサイトを見る必要がなくなると、自分で書いてサイトを更新する気が失せてしまった私です。

少し前にまとめサイトが、他のサイトから必要な情報だけ引っこ抜いて、如何にも自分が書いたように見せているのは著作権を侵害しているというような議論があって、まとめサイトを提供していた企業が倒産したり、Google検索の順位が大きく下げられたという事件がありました。

しかし、インターネットから情報を引き出してくるChatGPTは、正にAIが行うまとめサイトのようなものですから、そのうち前回と同じような議論が巻き怒らないとも限りません。

ところで、最近AIが絵を書いたり小説を書いたりするそうですが、そうなると将来消滅する職業に真っ先に挙げられるのは、小説家やアーティストとなってしまいそうです。

クリエーティブな職業は、人間本来の感性や経験に基づくものなので、一番AIの影響を受けなさそうな気がしていましたが、意外とクリエーターはほとんどクリエート(創造)することなく、過去に造られたものをコピーして、模倣して、つなぎ合わせていただけだったのかも知れません。(そりゃ、頻繁に盗作が話題になるわけです。)

まあ、絵画も最初は模倣をするところから始めるそうですから、模倣は大切なのでしょうが、これほどまでに様々な芸術作品が溢れてきていますから、そう簡単にオリジナリティがあって素晴らしい作品を作ることはできなくなっているのでしょう。

過去の作品の一部をコピーして適当にノイズを入れておけば、新しい創作物の出来上がりとするならば、AIは人間より数段速く作る事ができるでしょうし、それを創作と認めないとすれば、これまでの人間の作品も創作と呼ぶには相応しくなかったと言えるかも知れません。

はるか昔の70年代に電卓が普及した頃、もう計算練習はしなくてもよくなるだろうと思ったのですが、実際は今でも計算は必要ですから、AIによってどこまで置き換わってしまうかは容易には判断できません。

AIが作った絵や小説が珍しいうちはおもしろがって話題になりますが、すぐに飽きられてしまうかも知れませんし、逆に人間が作った絵や小説が見向きもされなくなるかも知れません。

得意分野を住み分けて共存するというのが、望ましい落とし所でしょうか?