名古屋城の木造化は必要か?

江戸時代の本物を木造建築で再現する計画が、思わぬ方向に向かっています。

そもそもコンクリート建築と木造建築の価値観の違いで揉めているところに、エレベーターの設置によってせっかく木造建築にしたのに本物感が失われるという意見と、バリアフリーを目指すべきだという意見が衝突しています。

まあいずれはどちらかが譲歩できるところは譲歩して、どっちつかずの結果に落ち着くのが常なのでしょうが、ここでもう一度文化遺産や歴史的建築物について考えてみたいと思います。

例えば絵画の場合、原画を修復したものと、レプリカしたものは明らかな価値の差があるように思います。いかにレプリカが精巧であったとしてもそういうレベルの問題ではありません。

ただ建築物については、戦争や天災で破壊された場合、絵画に比べて遺産としての価値があるように思います。

絵画の場合は、画家の筆使いやキャンバスの質感、保存状態の良し悪しが決定的に価値を持ちます。

しかし、建築物の場合は、そもそも作者たるべき大工さんが誰かも分かりませんから、「のみ」や「かんな」のタッチが話題になることはありません。

名古屋城ほどの規模になると、歴史的にこのような立派な建造物がある時代にある人物によって建てられたということが重要なわけで、本当に存在したことが歴史上証明されていれば、別に建築物としての本物感は重要でないような気がします。(あくまで個人的意見です。)

もし、木造建築でとてつもない難しい工法であったとか、世界一高い木造建築だったとかなら、木造以外で再現しても存在価値がないかもしれませんが、名古屋城を今更木造建築にしたところで、本物と同じ材料で作ったというだけであって、それほど本物に近づいたという気がしないのではないかと思います。

ということでここでの結論は、そもそも現状の名古屋城を大切に守っていけば良いのではないかと思うのです。

現状の金のシャチホコにも結構思い入れがある人達も多かろうと思いますし、今の名古屋城を建造するときもその時の最善を尽くしたのでしょうから、何もわざわざ壊してまで似たようなレプリカを造りなおす意味はないと思う次第です。

運転手のなり手がいない

今、路線バスやタクシーの運転手のなり手がいないために、バス路線を廃止したり繁華街のタクシーを増やせないという問題があります。

それら以外の職業でも、以前なら問題にならなかった人手不足が深刻になっていて、一体人々はどこで働いているのだろうと疑問に思ってしまいます。

ホンダが自動タクシーをGMと共同で開発して2026年に走行を開始する予定だそうですが、確かにタクシーの運転手がいなければ自動運転を早急に開発する必要があるでしょう。

タクシー会社が自動運転車を購入して運行したら、タクシー会社としては利益も出て経営者にはこれまでと変わらないかもしれませんが、運転手はもう必要ありません。

同様のことが産業のあらゆる場面で起こっていけば、労働者が自動化されて消えていき、経営者だけが残ってお金を稼ぐ訳です。

そこにいた労働者は、何らかの方法でお金を稼がないと自動化されたタクシーやバスに乗ることができません。

世の中にはお金を持っ経営者である富裕層と、仕事もお金もない貧困層に分かれてしまうことになります。

それはそのはずで、機械化によって自動化されれば業務は全て機械がこなすわけですから、人間の仕事はありません。

人間がする仕事は、自動化された設備に投資するだけです。何らかの方法でお金を調達できる人でなければなりません。

これまでの社会では、学歴や知識や技能があればお金を稼ぐことができましたが、それらは全て自動化に飲み込まれてしまって、意味があるのはお金だけになります。

市場経済の成れの果てと言えば、経済学者などはとっくの昔に予想していたのでしょうが、現実が近づいてくると、なるほどと頷いているどころではありません。

自然科学のイノベーションでは経済に結びつくことしか価値がないので、この状況を打破できないでしょう。

何らかの社会科学的なイノベーションが必要です。

世界を見ていても、未だにこれまでの経済学に基づいた理論や推論に留まっています。

ノーベル賞級の社会変革が待ち望まれています。