Amazon Work Space(AWS)は安全か?

クラウドがコンピューター稼働環境の常識という風潮がありますが、これはあくまでコンピューターの利用形態、特にハードウェアの管理をどうするかという一つの方法に過ぎません。

自分の手の届く範囲にコンピューターの筐体があって、ネットワークも自分で管理して初めてコンピューターシステムを構築したと言えるわけですが、それが大変で自分の手に負えない場合に、コンピューターのハードウェアを他人に任せたい、お願いしたいとなった時の依頼先がクラウドということです。

つまりコンピューターの運用は、他人にお任せでも良いアプリケーションの場合。(これ重要!)

Amazon Work Space、AWSはクラウドサービスの最大手として、いろいろな啓蒙活動(宣伝)としてオンラインの講習会や品評会を開催しています。

最近開催された講習会には日本のデジタル大臣も講演者として登壇して、クラウドの先進性や安全性が唱えられていましたが、その際に1つ気になったことがありました。

AWSの責任者が「Amazonはセキュアで安全です」と言いながら、しかし、その方策が一切語られなかったこと。

要約すると、「Amazonのシステム担当者はAWSに蓄えられたすべてのデータにアクセスすることはできるけれども、それを悪用はしません」ということでした。

通常システムを構築するのなら、セキュリティを守るためにそれなりのシステム的な(つまり自動的な)仕組みがって、一部に人手を介する場合があっても、体系的にデータを安全に漏洩しない・できない仕組みがあるべきです。

AWSの講習会ならなおさらその仕組を丁寧に説明しなければならないはずなのに、説明がまったくないのは、ひょっとして仕組みが考えられていないのではないかと思うのも当然でしょう。

この状況から想像するに、おそらくAWSののセキュリティ対策は、システム担当者が「Amazonに損害を与えたときは私費で賠償します」という念書にサインをしているぐらいのことではなかろうかと。(つまり個人の私費で賠償できる程度のデータしか預けては行けないということ!)

これだけ過去数十年間もシステム担当者には裏切られ続けたコンピューター業界ですから、そこでクラウドという業態で重要なデータを扱おうとしているのなら、もう少しマシな説明ができそうなものです。

例えば、通常と異なる取引や情報の照会があったときは、AIで異常を検知して数ミリ秒以内に社長にアラームが届き、社長が異常に対して内容の公表と対策の詳細を公表して、カスタマーには特に月報にしてレポートする程度のことはしなければならないと思います。

もし既にそれぐらいのことをしているのなら、それこそ講習会で説明しなければならないことでしょう。

私の結論は、AWSのクラウドは信用ならない!

日本の公共システムとしてAWSのを採用するつもりで、デジタル大臣が講習会のキーセッションに登壇しているとすれば、軽率も甚だしい!

国策としてクラウドが必要なら、なぜ国産のクラウドを立ち上げない?

ちょっと前まで世界のコンピューター業界でしのぎを削ったNECや富士通や日立が日本にはあるのに、なぜ通販業者に過ぎないAmazonに全国民の大切なデータを託すのか?

全く意味が分かりません。

IT人材は肉体労働者!

本来は「肉体」ではなく「頭脳」のはずですが、、、

日本の文系経営者(理系経営者もか?)からは、「ITやDXなんかはプログラムができる(オタクのような)やつらに勝手にやらしておけば良い」という考え方が浸透してしまっているようです。

これは日本でコンピューターが普及し始めた70年代から変わっていないように思います。情報技術者の地位や給与が低いままです。

これまでに何度か日本にも、経営的にITの重要性が注目された時期が訪れましたが、経営的なセンスは全く変わりません。

ITや情報システムは必要悪! 誰がやっても大差ないインフラのようなものという考え方が、何十年に渡って一向に変わる兆しがさりません。

確かにシステム関連専門の企業には、いかにも怪しい会社が多いのは事実。過去に大量にレイオフしたり、残業がきつかったり、給与が平均より安かったり、ブラック企業と呼ばれても仕方がないような企業が多いのも確かです。

つまり、日本の企業に対してこれからはDXが大切だといくら叫んでも、経営者がDXの価値を認めたとしても、安いコストで済ませようとします。

なぜなら彼等にとってインフラだから、DXやITで勝負できるとは思っていません。

これほどGoogleやAppleに世界中の情報利益を吸い取られていて、さらにChatGPTで根こそぎ甘い汁を吸い取られようとしているのに、いまだにITがインフラだと信じているのなら、日本の経営者は素人同然と言えるでしょう。

日本でIT専門家を育てるために、情報科目を大学入試に真剣に取り入れるとか、小学校から情報教育を本格的に取り入れるとか、そのために小中高で情報をまともに教えられる教師を養成するとか、、、

おそらく30年前に取り組んでおかなければならなかったことばかりです。

根本に、士農工商で農民が汗水流して働くことを美徳とした歴史があるからでしょうか?

その割に最近従業員の給与が上がらないのが問題だと言いながら、下手な経営で利益が出ていないにも関わらず、経営者の給与だけは米国ばりにうなぎのぼりです。

元来日本人は、海外からの指導(干渉)がないと、自身では社会を改善できない欠点があります。

ならば、海外留学経験者や海外からの批判を素直に受け入れて、その考えを日本なりに昇華させる必要があるでしょう。

「DXはどこかの肉体(頭脳)労働者に任せておけば良い」だけで済まさずに、もっとまじめに取り組む必要がありそうです。

ChatGPTに3つの反応

ChatGPTが話題に上って数か月たちます。

最初は物珍しさに驚き、次はその驚異的な能力におののき、それが人間の能力を凌駕するのではないかという恐怖に変わり、そして最近ではインターネットで仕入れた情報を使ったビジネスモデルに疑問を唱えるようになりました。

人々の対応には大きく3つに別れているように思います。

1つ目のパターンは無反応。まったく関与せず、と言うか頭が固くてChatGPTやAIが何なのか理解できない人たちです。

実は意外とAIの正体を本当に理解していて、すでに達観しているだけなのかも知れません。

2つ目のパターンは楽観的。人より早く新しいテクノロジーを使いこなして、少しでも楽をして人を出し抜こうとする人たちです。

新しいテクノロジーが出現したら必ずこのような人たちがいるもので、俗に言うエバンジェリストなどの開拓者精神たくましい人たちで、事件台となって色々試行錯誤をしてテクノロジーの普及に貢献する人たちです。

3つ目のパターンは悲観的。AIによって人類が滅ぼされるのではないかという陰謀論的な思考をする人たちと、ChatGPTなどのAIが人類の共通の資産であると思っていたインターネット上の情報を牛耳って、一部の企業が金儲けに結びつけていることを疑問視する人たちです。

人間の職業の中で将来なくなるものがあるかどうかという議論は、占い的な要素もあって誰でも飛びつく面白い話なのですが、話題的にはありですが議論としてはあまり意味がありません。

やはり一番問題がありそうなのは、AIによって人類より進んだ文明ができてしまうのではないかという不安でしょうか?

ただし、今のところAIのトレーニングはまだ人間がコントロールできているみたいですが、実はその人間が一番の問題です。

インターネットやあらゆるデジタル機器から溢れる情報を、一部の企業や国家が独占的に使用しているところに、決定的な問題が潜んでいると言えるでしょう。

これは企業が金儲けのために使用するばかりでなく、暴力的な国家が関与すると危険です。

そうなれば核の驚異と同様に、AIの驚異が人類を破滅に導く可能性があります。

人類がまた1つ禁断の木の実を手に入れてしまった言えるでしょう。

子どもの声は騒音か?

「子どもの声は騒音ではない」を法律化する可能性を検討するとか。

何が騒音で何が騒音でないかは、なかなか定義が難しいものです。うるさいと感じるのはその人の感覚次第ですから。

音楽が好きな人は、ピアノなりバイオリンなり、エレキギターの音に聞き耳を立てるでしょうし、飛行機好きの人は空港の騒音が好きだという人もいるでしょう。

ただ好きな音だとしても、意図しない時や四六時中その音の中にいられるかというと、また話は別です。特に長時間続く騒音は体験してみないとなかなか理解できないでしょう。

街の中の公園が、子どもの声がうるさいという苦情によって閉鎖されたというニュースがありましたが、それも程度の問題で、本当にうるさかったのかも知れませんし、過剰な反応なのかもしれません。

政府関係者の話として、ドイツでは子どもが発する音は法律で騒音とは見なさないと決められているそうです。

世界標準化を目指す政府としては、ドイツを見習って同様の法律を制定しようとするのでしょうが、日本とドイツや西欧諸国とは少し文化が違います。

一般に西欧諸国では、子どもは小さいときから社会人としてのマナーを教えられ、公共の場での所作には厳しい傾向があります。

よく親が子どもに”No screaming!”と叱っている場面に出くわしますが、公共の場で子どもが不必要に騒がないようにしつけています。

日本みたいに「キャー」とか「キー」を公共の場で連発する子どもなんかいません。(本来「キャー」は危険な目に遭った時以外は禁止です。)

日本を始め、アジア諸国は文化的に子どもは宝という考えがあるのか、概して子どもに甘いです。特に身内に対して甘過ぎる!

自分の子どもが他人に迷惑をかけても平気な親が多いです。

法律の前に、まずしつけ!

そうすれば法律なんかで決めなくても、子どもの声が騒音なんて思う人はいなくなるのではないでしょうか?

ストリートピアノ

加古川市にあったストリートピアノが、利用者のマナーの問題で撤去されたというニュース。

これについていろいろな意見があるようで、日本人のマナーの低下や規則遵守の風潮が薄れてきたという意見とともに、ストリートピアノ自体が日本の文化的に受け入れられていなかったのではないかという意見もあるようです。

1980年代にまだ若かりし頃のトム・ハンクスが主演した「Big」という映画がありました。

13歳の少年が早く大人になりたいと願ったところ、急に20代のおとなになってしまい、おもちゃ会社の社員となって社会人生活を始めたという設定のファンタジー映画です。

ニューヨーク市の、おそらくメーシーズと思われるデパートのおもちゃ売り場を訪れた時、フロアに置かれたオルガン鍵盤の上を脚で踏むと音階が出るので面白がっていたら、偶然通りがかった自分の会社の社長と意気投合して、即興で連弾するという微笑ましいシーンです。

https://www.imdb.com/title/tt0094737/mediaviewer/rm3761163009/?ref_=tt_md_1

ストリートピアノのあるべき姿のような気がします。

私が普段通るエリアにはストリートピアノを見かけないので、最近どのような雰囲気なのかよく分かりませんが、個人的にはストリートピアノやストリートミュージシャンの音楽に少し立ち止まることはありますが、それほど聞き入る事はありません。

プロ並みにうまい場合ならば聞き入ることもあると思いますが、街の雰囲気の一部であるという感じで、それほど期待もしないですし、それほど邪魔だとも思いません。

一時関西のJR駅のホームに、四六時中クラシック音楽が流れていたことがありました。

電車を待つ時間が長い場合は、逆にバロックのようなクラシックを、拡声器のような音質の悪いスピーカーから流れる音楽はノイズでしかありませんでした。

苦情が多かったのかそのうちに消えてしまいましたが、ストリートピアノもその場の雰囲気として相応しいかどうかが分かれ目なように思います。

それから演奏する人や通りがかった聴衆に余裕がなければ、なかなか良い雰囲気を作り出すことはできないでしょう。

演奏会などでもそうですが、演奏者と聴衆のどちらもが素晴らしい人達で、うまく噛み合ったときに最高の音楽が生まれます。

ただ余ったピアノを置いておけば、良い音楽が奏でられて人々が聴き入るというほど簡単ではありません。

今回撤去されたピアノには残念ですが、ストリートピアノという取り組みは今後も続けて頂きたいと思います。