セルフレジの現状

私が利用するスーパーのレジは、支払いだけがセルフのものと、スキャンと支払いの両方がセルフのものがあります。このお店以外で利用するのはフルサービスのお店ばかり。

以前テレビCMで話題になった、カートに載せたままレジのレーンを通り過ぎるとレシートだけが出てくるタイプや、アマゾンの無人店舗でカメラであらゆる方向からスキャンするタイプなどは、実現性が乏しくあまり話題に上らなくなりました。

国産ではローソンやユニクロのフルセルフレジが目立っていましたが、その後普及したのでしょうか?

RFIDを全商品に取り付けて電波でスキャンする方法は、商品のRFIDが重なった場合にどうしても読み取れないことがあると聞いたことがありましたが、その後のRFIDの低価格化やRFIDの商品への取り付けの手間などの問題もあって解決しなかったのでしょう。

実は数年前に、有機半導体を使ったRFIDを開発していたベンチャー企業にいたことがあります。

印刷技術を使って安価にRFIDを作れるということを実証しようとしたのですが、有機半導体で1円でできるようになったとしても、インフラの整備やRFIDをの貼り付け作業のコストを考えると、バーコードスキャンに勝てないというのが当時の結論でした。

今やあらゆる人力が省力化されようとしていて、自動車や電車の運転、銀行窓口や宅配業務など、自動化が進みつつある場面が加速度的に増えています。

昔からスーパーのレジ打ちはパートタイマーの求人が多かったですから、省力化の筆頭に上がるのでしょうが、いくつかの試作品レベルの製品を試しているうちに、現状のセルフレジ程度に収まってきているということでしょうか?

一人で管理できるレジレーンの数を、いかに増やすかということが焦点になってきているようです。

自動化開発の常ですが、最初は完全自動化が簡単に見えて目指してはみるものの、数々の実際の問題を見て初めてことの困難さに気づき、結局半自動化の方策を探ることになるようです。

ここしばらくは、半自動化レジを普及させていくことでいくらかの省力化を目指すことになるのでしょう。

究極の社会は、レジの自動化ではなく、支払いの不要化かもしれません。

日本製スマートフォンが消えていく

らくらくホンはそのうちにお世話になるだろうと思っていたのですが、製造会社のFCNTが破綻したということで老後のスマートフォンが心配です。

技術が進歩して、画面表示を見たり文字入力をしなくてもよいスーパースマホの登場を期待したいところです。

FCNTは富士通から分社されたらしいですが、富士通arrowsはスマートフォンが普及しだした頃はメジャーブランドで、特に際立った機能はなかったものの標準的な機能は十分な、安心のNTTファミリー製という安心感がありました。

今から思えば、安心感があっても際立った特徴がなかった時点で、競争が激しいスマートフォン業界では継続できない運命だったのでしょうか?

30年前なら、カメラや時計などの精密機器にも通ずるスマートフォンなどは、日本メーカーが最も得意とする分野だと信じていました。

日本のメーカーが得意としたいわゆるコンシューマー製品は、ローエンドと言われていてハイエンド製品に比べて性能は抑えて、その代わり価格と品質を際立たせた製品が多く、それらの開発製造には日本メーカーがが優れていました。

しかし、その後最先端の技術がコンシューマー製品に採用され始めると、いち早くそれらの技術を製品化したアップルや、それに続く中国メーカーが大量に製品を供給し始めます。

それまでの携帯電話の時代でもガラパゴスと言われた日本製品は、世界標準仕様で勝負することに慣れておらず、国内メーカーの間で背比べする習性から抜け出せませんでした。

また製造技術の海外流出が加速して、国内の製造拠点もなくなり、同時に開発も弱体化してしまいました。

せめて技術はなくなってもビジネス面で勝機があれば良いのですが、そもそも日本はビジネスを作って活かすことが苦手ですから、スマートフォンの撤退が相次ぐのは当然かも知れません。

あとはソニーとシャープだけが国内のスマートフォンメーカーとして残っていますが、スマートフォンの次の勝負をしたいところです。

今、電車に乗ると8割の人は、乗った途端にポケットからスマートフォンを取り出して、旗から見ているとそれこそ真剣に操作して何やら熱心に見ています。

ここ暫くの間は、人々はスマートフォンに満足しているでしょうが、AIを搭載したもっとスマートなデバイスが1~2年のうちには登場するでしょう。(スーパースマートフォンとでも言っておきましょう。)

その時に一気に世界を巻き返す準備を密かにしている企業が、日本に1つや2つあれば良いのですが、、、

本気で悪いと思っていない?

ドライブレコーダーは、あおり運転に遭遇したりもらい事故に遭ったときに、自分の無実を証明するツールとして推奨され、ここ数年装着する人が急激に増えてきました。

しかし、悪質な事故が起こったときに、その事故を起こした張本人の車に装着されていたドライブレコーダーで記録されたものが、事故の証拠として採用される場合があります。

事故を起こした運転者が不利になる証拠を、自ら差し出すことに違和感があったのですが、ふと考えてみると、事故を起こした本人は事故の原因が自分にあることを認識していないのではないかと思うようになりました。

事故の原因が自分にあって、証拠があると不利になると予測できれば、普通の神経だったら証拠を隠滅するのではないでしょうか?

それをみすみす警察に証拠として没収され、それが決定的な証拠となって事故の責任を問われるのは、自分が悪いことをしたという自覚がないのでしょう。

最近、YouTubeで回転寿司などでの迷惑行為の動画を公開する連中にしても、仲間内しか見ていないという勘違いがあるのかもしれませんが、そもそも悪い行為だとは思っていない訳です。

これは平気に悪事を働く人間が増えていて、悪いと知って犯罪を起こすよりも怖いことではないでしょうか?

未来では人々は段々と周りの人の行動に関心がなくなり、自分の好きなことを好きなようにやって、それが他の人に危害を与えようが全く気にならなくなる。

タイムマシンで未来を描いた映画でよくある想定です。

SDGsが話題になり、地球の環境を未来まで継続できるようにしようという活動が進められていますが、地球より先に人間自身が未来まで継続できなくなって行くような気がします。

人間が生命として、絶対に欠かしてはいけないものが失われてきたのでしょうか?

ラウンドアバウト(環状交差点)の存在価値

毎日通る構内道路に俗に言うランドアバウト(環状交差点)があるのですが、交差点を出るところで方向指示器の操作をする運転者がほとんどいないために、どこで交差点を出るのか分らず歩行者が右往左往しています。

そもそもランドアバウトのすぐ出口に横断歩道がある時点で、ランドアバウトとしての機能である途切れない車の通行を妨げてしまいますが、それほど交通量が多いわけではないのでまあ問題ないかと。

交通量が少ないならラウンドアバウトの必要がないではないかという意見もあるでしょうが、それはさておいて(さておくのか?)海外ではよく見かけるランドアバウトが、国内の道路交通法で制定されたのは2013年ということらしいので、まだ導入されてから10年しか経っていないので正しい利用方法も知れ渡っていないということなのでしょう。

ラウンドアバウトは信号機無しで平面交差を行うため、信号待ちせずに連続的に交差点に侵入できる利点があります。

つまり交通量街多いところで効果を発揮するわけですが、それなりに広いロータリーを形成しなければならないため、既存の道路を拡張して設置するのは難しいようです。

スペースに余裕がある箇所に限られてしまいためなかなか通りがかる機会がないので、ラウンドアバウトにどのような法規制があるのか知らない人が多いのではないかと思います。

基本的に環状交差点へは、環状部の交通が優先されるので徐行で進入し、出るときは手前の交差点を過ぎてすぐに左側の方向指示器を出して、目的の進路に進みます。

つまり流入時や環状路に留まっているときは、方向指示器は要らないというのが日本の法規のようです。

従来から利用している国々では、環状部で内回り方法への方向指示器を出し続けるイギリス式と環状部では出さないドイツ式があるようですが、その他にも国ごとに法律やしきたりがあるようです。

日本では侵入時に徐行となっていますが、本来USなどのようにこれから合流する流れを優先するYieldという概念が、日本の法規にも必要なのではないかと思います。

徐行と言われても許される速度が明確でなく、いくら徐行したところで安全確認を怠れば意味がありません。

今後日本でそれほどランドアバウトが普及するとは思えませんが、突如として目の前に現れたときに適切な対処ができるように、知識として知っておくのは必要だと思いました。

時代は核家族から個人家族へ

核家族化が進んだのは、昭和40年代からでしょうか?

都会の近郊に衛星都市が作られて、公団やその後マンションがどんどん建ち並ぶようになり、地方から都会に人が流れ込んでそれまでの生活が大きく変わった頃です。

その後、長らく核家族世帯が主流になっており、最近ではテレビで見る「サザエさん」の生活が、如何にも昭和の時代を色濃く反映していることに違和感を感じるほどになりました。

今どきおじいさん、おばあさんと孫が一緒に住んでいる家庭は、少なくなったのではないでしょうか?

ところで、近年は結婚をする年齢が上がっており、また結婚をしない人も増えているようです。

そうなってくると、核家族かから更に一人世帯で生活が完結する、個人家族なる生活形態が主流になってきます。

「家庭に愛はあるんか?」みたいなややこしい話は必要なく、愛だの恋だのも関係なく、経済的や合理的に同居した方が良いと判断したときだけ、パートナーとなった人と必要な期間だけ同居するような家族関係が、ごく一般的になってくるのでしょうか?

このあたりはテレビドラマの影響もあるのでしょうが、明らかにここ20年ぐらいで家族の関係について大きな変化が起こっているような気がします。

今やキャンプもお一人様で問題なく出来ますし、焼肉もすき焼きも一人前のメニューがどこにでもあります。

携帯電話やインターネットなどは家族で使い回すものではありませんし、コンピューターもパーソナルですから、生活上家族である必要性が昔ほど無いのかもしれません。

どんどん個人家族が普通に思えてくると、子どもを作るときだけパートナーを組んで、育てている最中に入れ替わったりするのもありかもしれません。

社会の仕組みが、これまでは核家族ありきで出来上がっていたものが、個人家族中心になってくると大きく変わることが予想されます。

教育問題や給与問題、社会保障の問題などを考えていく際に、個人家族の増加についても考慮していかなければならなくなるでしょう。

たとえ夫婦で老後まで一緒に過ごせたとしても、いずれは個人家族になります。

これからの基本となる個人家族について、真剣に考える時が来ているようです。