「座席・通路を大柄な乗客のために広くすべき」は差別かわがままか?

ニューヨーク・ポストに、インフルエンサーの女性からの投稿があり、飛行機の通路と座席を大柄な乗客のために広くすべきだとのご提案があったそうな。

現状では太い人に対する差別だとおっしゃる。

多様性が認められるようになり、太っていることも個性であって認められるべきだということらしいです。

別に他人に危害を及ぼさない限りは、太ていても痩せていても個性を主張するのは個人の自由です。

しかし、物理的に制限がある交通機関の場合大きさはコストですから、最低限耐えられるだけのスペースしか与えられないのが常です。

ですから、大きなスペースが欲しければ、通常は上のクラスの搭乗するしかありません。

実際に大きなスペースを用意するのにはコストが掛かりますから、人間の平均に合わせるのが合理的で、それより大きな人は我慢するか2人分予約するしかないでしょう。

逆に体重が半分だから子供料金にしてという大人も出てきそうです。

まあ体が大きいから大きな座席を同じ料金で用意しろというのは、体が大きいので食事を人の2倍出せとラーメン屋で言っているようなものでしょう。

「私は潔癖症でそれは個性なので、両隣の席は空席にしてくれ」なんていうリクエストにも応えなければならないくなります。

それよりも可哀想なのは、その大きな人の隣に居合わせた普通の体型の乗客です。不幸にも太い人の隣になってしまってお見舞金ぐらい欲しいところでしょう。

多様化を認める兆しが社会を平和にするのか、あるいはかえって住みにくくするのか。

「過ぎたれば及ばざるが如し」

駅のコーヒースタンドは流行らないのか?

阪急・阪神電車がかなり積極的に推進していた、駅ホームの影スタンドが撤退するらしいです。

数年前からかなり強引に、駅の空いたスペースにネスカフェのコーヒースタンドを展開していました。

当初は割引付きの回数券につられて利用客はそこそこあったようですが、回数券の期限が切れた頃から、手持ち無沙汰にする店員さんの姿が電車に乗るたびに見えていましたから、そろそろ引け際かなと思っておりました。

コーヒースタンドの需要は、スターバックスから始まってコンビニに飛び火して、その後から駅ナカに展開したのですが、思ったようには行かなかったようです。

スターバックスには、忙しい中のひとときを過ごす空間がありますし、コンビニには昼ごはんやスィーツなどと一緒にコーヒーが必要です。

しかし、駅のホームでコーヒーだけを飲んで暇をつぶすには、10分も待たずに次の電車が到着しますし、ただコーヒーだけではいくらスマホがあっても手持ち無沙汰で、日本人にはそれほどカフェイン中毒が溢れていなかったということでしょう。

大きく当てが外れたということでしょうが、組んだ相手がコーヒー専業のネスカフェだったのも不運だったのでしょう。

他に提供するファーストフードなどがあれば、朝ごはんの代わりに利用する人もあったでしょうし、おやつのスィーツなどで話題になるようなものが提供できれば、また違った展開になったのかも知れません。

熟練のコーヒーマイスターが入れるのでもなければ、自動販売機とあまり変わらず、確かにコーヒースタンドのあとには自動販売機が2台並んで設置された駅がありました。

海外では街角にコーヒースタンドがあって、常に人が入り乱れて賑わっているイメージがありますが、忙しく電車が到着する日本の駅では、コーヒーを飲むスタイルと一致しなかったのかも知れません。

では、なぜ立ち食いそばが駅にあるのかって?

コーヒーはなくても困りませんが、腹が減った時の早食いそばは必然なのです。

スーパーコンピューターの日常度

スーパーコンピューターと言えば、「一番でなければなりませんか?」で一躍一般に親しみのある存在になりました。

確かに富士通の京や富岳が世界一になったのですが、世界一だからといって世界中から注文が殺到したとい言う話はなく、世界一になって「注目はされど、注文が来ず」と言ったところでしょうか。

以前、富士通に長く勤めた人と仕事で一緒になった時、富士通のCMOS技術によるスーパーコンピューターは、社内でも特殊な部隊で営業に目標があるわけではなく、利益度外視でやっている看板みたいなものだと言われていたことを思い出します。

スーパーコンピューターといえば、最近では新型コロナ禍のくしゃみ飛沫のシミュレーションが有名になりました。

これによってマスクの有効性が国民に知れ渡り、その後のマスク生活が定着するきっかけになりました。しかし、飛沫の軌跡についてはそれまでの常識を大きく外れることはなく、思っていたとおりに結果だったという印象があります。

くしゃみのシミュレーションをスーパーコンピュータで実行するというと、さぞかし理論的な計算に基づくものと想像してしまいますが、(実際は知りませんが)おそらく数多くの前提条件(Assumptions)が用意されていて、身長や肺活量、気温や気圧、口から出る呼気の初速度、鼻の穴の大きさ、口の中の唾液量、部屋の中の空気の流れ等、設定によって結果が大きく変化するような条件がたくさんあって、とんでもない結果が出たときはそれらを調整して、当たり外れのないような結果が出るようにしていたのではないかと勘ぐってしまいます。

最近では台風の進路を、世界中の研究機関が予測して地図上に軌跡を描いていますが、あまり突拍子もない結果はなく、概ね傾向が似ているのは、シミュレーションの精度がどれもよくて似たような結果になってしまうのかも知れませんし、突拍子もない方角に行かないようにパラメーターの設定で押さえつけているのかも知れません。

要するにスーパーコンピューターで予測をしても、あまりにも奇抜な結果には、世間が拒否をしてしまうのでしょう。ある程度根拠がありながら、奇抜すぎない結果が望まれているのです。

くしゃみの飛沫もそうですが、昔から予想していたのと同じ結果だとしても、スーパーコンピューターで予想が正しかったことが証明されるところに意義があるのでしょう。

「それでも地球は回っている!」みたいな常識を覆す新発見があっても、常識に沿った結果が出るように条件をいじってしまい、スーパーコンピューターから世紀の新発見が生まれるのは意外と難しいような気がします。

くしゃみ飛沫のシミュレーションのように、日常の出来事を証明していくことも地味ですが必要なことなのかも知れません。

ジャニーズ問題の真剣度

一時に比べてニュースになるときのトーンが落ち着いてきた感じがしますが、相変わらずジャニーズの性被害に関するニュースが伝わってきます。

さらに過去に遡って何回かこれまでにニュースとして取り扱われた事件を取り上げたりして、実はずっと昔から同じ問題が継続していた事に気づくわけです。

すなわち、それらの事件報道にも関わらず問題が温存されたまま一向に解決しなかった訳ですが、やっと本人が亡くなられた後になって事件を本当に問題視する姿勢が見えてきたということでしょう。

どうして過去の事件で十分に問題を取り上げて改善してこなかったのかというと、事件の特殊性により真剣に取り上げなかった事があると思います。

今でこそLGBTQなどと表で討論されることも珍しくなりましたが、そのような状況になったのはここ数年のことで、蓋をして誰もまともに見ていなかったのです。

例外と言うことで無視していた。

欧米では80年代から児童ポルノに規制がかけられたりしていましたが、確かにアムステルダムの本屋や文具屋に並べられた絵葉書には、怪しい雰囲気の子どもの絵や写真がたくさんありました。

日本は性に関して奥手というか表沙汰から隠そうとする傾向がありますから、どうしても社会問題として取り上げるまでに時間がかかります。それも数十年単位で遅れている。

ですから欧米に遅れること40年ぐらいで、やっとまともに討議できるところまで国民の意識が追いついてきたということでしょう。

おそらくジェンダーに関してはこれから多くの問題が表面化するでしょうが、一つ一つ目を目を逸らすことなく善悪を判断して、社会の常識となる基盤を作っていきたいものです。

不倫は「悪」かと聞かれたら?

まあ悪とは言い切れませんが、褒められることではなさそうです。ならば普通かと言えば、やはり普通より少し悪い側に寄っている感じですか。

だから品格がある人に出演してもらいたいCMやドラマには、採用しにくいということでしょうか。

しかし、歴史上の人物で恋多き人は男でも女でもたくさんいたようですから、権力や名声がある人なら不倫はつきものだったのかも知れません。

歴史に残る人だからといって人格者である必要はないので、権力や名声、人格と品格、貧富などの間にはそれほど相関がないということでしょう。

品のない権力者はいっぱいいますし、立派な業績がある人が人格者だとは限らないので、芸能人が不倫をしてもそれだけの話し。

でも不倫をした人が家族が和気あいあいとした雰囲気のCMあたりに出演していると、そりゃ違和感がありますし、スポンサーもお断りしたいでしょう。

また不倫は非難されることかどうかと言えば、これもしたい人は非難して、どうでも良い人は無視すればよいのです。このあたりの感覚は婚姻についての考え方の変化が、影響しているかも知れません。

以前は離婚がタブーでしたが今や珍しくないですから、不倫についても近いうちに問題視しない風潮になってくる可能性があるでしょう。

同性婚が議論になる時代ですから、婚姻はあくまで社会的な契約でドライなもの、家族だの愛だの恋愛だのは婚姻とは別のものと切り分けて考えるようになるのでしょうか?

社会の制度が、人々の考え方の変化に追いついていないような気がします。