エビデンスとポシビリティ

よく医学の分野でエビデンスがあるとかないとかが話題になることがあります。

たくさんのサンプルの結果を集めて、統計的に処理を行って科学的根拠があると判断するわけです。

しかし一方、昔から「可能性が否定できない」という曖昧な表現も使われ続けています。

で、大概はエビデンスがあると言われればそちらを信用したくなるわけですが、ではエビデンスがあるしっかりした根拠があるものと、可能性があるという根拠のないもののどちらが信用できるでしょうか?

そもそも、誰もが認めることなら議論するまでもなく自明ですから、エビデンスが必要になる時点で確実な結論などないことが分かります。すなわち可能性の範疇の話になってしまうわけです。

例えばある薬品の効用が、研究によって90%の人に効果が立証されたとしても、その薬を飲む本人が90%に該当するのか10%に該当するのかはやってみないと判らないわけで、結果として効かなかったとしたら「私は10%の方だったんだ!」と納得するしかありません。

結果が不成功だった後は、エビデンスがあろうがなかろうが自分の結果が全てであり、予想がいかに高い確率をエビデンスが証明していても、結果を覆すことはできません。

ですからエビデンスは学術的に可能性を保障するだけで、判断する上での参考にはなっても実施した結果にはなんの効力もないのです。

このことは当たり前ではありますが、エビデンスは研究としての単なる作法の一つに過ぎないということになります。

学術論文なら作法として必要だとしても、日常の業務や生活で「エビデンスがないからだ駄目だ!」などという輩には、まず「エビデンスがあっても可能性は変わらない。まずやってから結果で判断しよう!」と言いたいものです。

夏休みの課題の所有権

インフォシークニュースに産経ニュースの出典として「夏休みの課題は誰のもの?」という記事が掲載されています。

兵庫県の公立中学校での課題であった夏休みの自由研究で、生徒から提出された作品の返還請求に対して学校側が紛失したため、その作品の所有権を争った裁判が一審二審と右往左往しているそうです。

右往左往というのは、一審の地裁では生徒の所有権が認められたものの、二審の高裁では学校側に所有権があるとなって、現在は最高裁で争われているということです。

これほど基本的と思われる生徒が制作した作品の所有権に、裁判所の判断があっちやこっちやと判断しあぐねている様子は滑稽であります。

まあないことでしょうが、その生徒の作品が実はとても価値が高いものになったとしたら、地裁判決の2万円の損害賠償どころの話ではありません。

よく似た話としては、青色ダイオードで有名になった企業における発明・特許の報酬問題がありますが、最近では一定の報酬を社員に与えるだけで、特許そのものの所有権は企業に属するというのが一般的になったようです。

特許の場合は、それを得るための企業側の費用や援助が相応に考慮されるでしょうし、特許申請の折に事前に社員と企業が契約を結ぶことが習慣になっていますが、学校の個人作品の価値が重要視されなかったこともあって、作品の所有権を議論することもなかったのでしょう。

ただ中学生の作品といっても、将来はどんな価値を持つか分かりません。学校教育における所有権の根本的な考え方が、今回の最高裁の判決で明らかになるのを待つことにいたしましょう。