自転車ヘルメットは安全か?

秋の全国交通安全運動が始まっています。

普段はあまり見かけないお巡りさんが、交通安全を啓蒙するために駅前でパンフレットを配ったりするおなじみの行事です。

最近は比較的交通に対する意識が高まっていて、高齢者による事故の増加や新しい乗り物によるトラブルなどが話題になることが多くなっています。

自転車のヘルメットも、罰則はないにしても使用を強く推奨されるようになりました。

ただヘルメットを被った自転車を見ると、かえってそのすぐ横を追い越そうとする自動車が増えるという研究があり、ヘルメットをかぶることが安全に結びつくとは限らないようです。

以前、自動車にエアーバッグが採用され始めた頃、エアーバッグの快適さを体験したいと思う人いた事を思い出しました。

その後、エアーバッグは思ったほど柔らかくて快適なものではなく、顔がズル剥けになって悲惨なことになるという噂が飛び交って、体験したいという人はいなくなりました。

ヘルメットも似たところがあって、これで少々コケようが事故を起こそうが、頭が守られていれば平気だと安心して乱暴な運転をする人が出ないことを願いたいです。

ヘルメットを被っていても、うまい角度で障害物にぶつかるとは限りませんし、時速10Kmや20Km程度で自分でコケた場合には有効でも、それ以上の速さや自動車相手だとヘルメットは気休め程度にしかならないかもしれません。

ましてや自動車が、ヘルメットを被ったサイクリストに幅寄せをするようなら、安全性が高まる保証はありません。

お守り程度の効果があると考えて、まずは法規を守った安全運転を心がけるようにしたいと思います。

80年代のアメリカと今の日本は似ている

80年代のアメリカ(合衆国)は悲惨でした。

経済的にも政治的にもまったく良いところがなく、50年代、60年代に謳歌した経済の優等生のような面影はまったく消え失せていて、政治家も企業もやることなすことすべてが裏目。

街にはボディーに穴が開いた車が煙を吐きながら右往左往し、ヒッピーとも浮浪者とも区別がつかない若者がたむろしていました。

当時、アメリカで唯一光っていたのは自動車産業でした。

いくら落ちぶれかけていたとは言え、御三家と言われたGM、フォード、クライスラーはアメリカの繁栄と富の象徴だったのです。

しかし、そのアメリカ製の車は品質が悪く、ドアのノブはすぐ外れるし、エンジンはすぐ止まるし、ディーラーのメインテナンスはお粗末だし、自動車保険の支払いは渋り倒して、自動車産業自体が過去の栄光にすがるだけで倒れかけていました。

今の日本を見てみると、トヨタ以外に世界で戦える自働車メーカはなく、車検やメインテナンスはでたらめで、おまけに自動車保険は穴だらけ。

まさに80年代のアメリカをそのまま映しているように見えます。

アメリカも、当時学生が集っただけのサークルだったアップルやグーグルが、その後時流に乗って世界の富を独占する存在になりましたから、それと同じように日本もスタートアップと呼ばれる企業が成長することを期待しますが、期待するだけでは思うように成長しない可能性があります。

是非とも、国家の運命を賭けて近い将来の日本を背負っていけるような有望な企業を探り当てて、国家を上げて支援できるような施策を繰り広げていただきたいものです。

大阪万博の建設予算が1.8倍

2025年の第2次大阪万博の建設予算が、当初の1.8倍の見積もりになっているというニュース。

建設費に限らず、食品も押し並べて30%は価格が上がっている世の中ですから、1.8倍なら致し方ないような気もしますが、今の時点で1.8倍と言っているということは、最終的に3倍近くになるだろうとは素人と言えども誰でも予想できることです。

さて、当初の3倍でも開催の価値があるのならいいのですが、収支が建設費3倍で見合うはずがありません。(もし見合っていたら最初の収支計算がとんでもなく嘘になります。)

最終的に見積もりが3倍になったと言えば、1964年完成の最初の東海道新幹線がありますが、これは高度成長過程にある日本が経済活性化のために必要だったこともあって、予算の使い過ぎだという議論が起こったことはありません。

インフレでお金の価値が下がり基調ですから、最初のうちは赤字が目立っても、そのうちインフレや利用率の上昇で投資の効果が顕著になってきます。

ところが、万博はわずか半年の命です。

しかも、その後跡地を利用するカジノ企業が、跡地の地盤改良に数百億円をかけるように要請しています。

時代が違うのですから、昔のようにイケイケドンドンでは羽目を外します。

ですから、当初予測した予算が外れた時点で、そのプロジェクトは失敗が決定しているのです。無理に進めると赤字が膨らみます。

ここまで来たからには何が何でも成功させると考えるのも、勢いの良かった過去の日本なら許されましたが、今の日本では国民の税金に頼るのは許されません。(ここが大事!)

(日本の政府や地方自治体は、税金をドラえもんのポケットだと思っているのか!)

これは建設予算が1.8倍ならその0.8倍分を支払う勇気があるスポンサーを募って、現れないなら開催を中止にするしかありません。(あとに入るカジノ企業が肩代わりしてくれれば一番良いですが、するわけがないです。)

少なくとも、このまま行けば国民の税金がまたもや無駄なお祭りに使われてしまうだけですし、もはやそれを許せるほど日本は裕福ではありません。

1970年の大阪万博にときは、開催の2~3年前から「大阪万博を成功させよう!」というキャンチフレーズを書いたのぼりが街中に上がっていて、鉛筆などのあらゆるものに印刷されていたいものです。

それほど国民が一体になってあれだけの成功を収めたのです。

それに比べて、今回の大阪万博は盛り上がりもない、予算もない、入場料は高い、行く気はない。これはやめるしかないという状況です。

せめて、赤字が出たら背負ってやるという投資家を今から募って、祭りのあとの尻拭いの準備を始めておくのが賢明かもしれません。

東北大学は裏切らないで欲しい!

世間では、ビッグモーターやジャニーズの過去の行為が明らかになるに従って、呆れるばかりの醜態を晒しています。

一部の企業で、しかもあまり程度が良いという噂が昔からなかった企業がやることですから、やっぱり悪さをやっていたのだなと、ある意味納得するところもあるわけです。

しかし、国際卓越研究大学に国内で唯一選定された東北大学で、いくつか綻びが報告されるようになってきました。

「一定の条件を満たしたときに認定する」という条件付きで選定されたこともあり、不備を指摘する告発などが増える可能性があるのかもしれません。

東京大学や京都大学を抑えての選定ということで一躍注目されましたが、10年雇用後の雇い止めが報告されたり、大学改革の看板である「テニュアトラック制度」がハリボテであったりと、足を引っ張るようなニュースが続いています。

何事にも競争相手がある事ゆえ、多少の大風呂敷はしかたがないのかもしれませんが、いかにもインチキが常習化している中古車販売業や芸能事務所とは違い、最高学府でアカデミックな国立大学でインチキ臭い話を聞くと、「東北大学、お前もか!」と言いたくなります。

条件付きで国際卓越研究大学に選定されたために、悪いニュースをぶちまけて引きずり落とそうと他の大学関係者が企んでいるとしたら、それはそれで恐ろしい話です。

昔は格式と品があって決して民を裏切らない組織や老舗企業があったように思いますが、法曹界、政治家、企業で目を背けたくなるような悪事が続いています。

競争が激しくなってくるとただルールを守っていては勝てないので、ギリギリのグレーゾーンでの勝負にならざるを得ないのでしょう。

しかし、社会が進歩するには、不安や恐怖を取り除いて、誰もが安心して暮らせるようにならなければならないと思います。

学術の分野で不安を感じる行為があると、学術の成果の信憑性にも疑問が生じます。

せめて学術の世界だけは、嘘や騙しから隔離されていてもらいたいものです。

多様化と選択

「世界は多様化する」と唱えられたとおり、今の世の中は様々なものが入り乱れて提供されています。

例えば、昔の通信手段と言えば電話と郵便があって、その次は電報と急に敷居が高くなります。

ところが今や電話一つとっても固定電話やスマートホン、LINEにIP電話にミーティングツールなど。もとは電話とインターネットだとしても、そこにつながるための手段が数え切れないほどあります。

またそれぞれの敷居はそこそこ高くて、いったんある方法で電話をすることに落ち着いたら、なかなか他の方法に移ることができません。特に電話は相手がありますから、相手と同期を取って手段を変更するのはさらに面倒になります。

以前なら古い方法がコスト面や使い勝手の点で淘汰されていき、自然とデファクトスタンダードというものが残って行くのですが、最近は手段が多すぎて優劣を決める要因がたくさんあり過ぎて、相互の比較さえ困難になってしまいました。

これは電話に限らず、テレビの視聴方法だったり。通販の購入経路だったり、宿泊予約方法だったり、切符の予約システムだったり、それぞれに多くのバリエーションがあってどれが良いのかいちいち迷っている時間がありません。

その結果、同じような機能を持ったサービスが溢れかえって、もはや優劣さえもつけられない状態になっていて、その結果本来淘汰される経済的に優位性がないものも、ダラダラと継続してしまうという事態になっています。

自由経済は比較によってより優れたものが選別されていくことが必要ですが、ここまであらゆる分野で多様化が進んでしまうと、人々の選別する気概がなくなって方法の優劣などどうでも良くなっているのではないでしょうか?

多くの選択肢があることは幸せに結びつかないという説もありますから、何らかの規制をかけて、選択の幅は残しつつもう少し社会をシンプルにしていくことが必要です。

このままでは世界中がゴミ屋敷になってしまうかもしれません。