モーターショーからモビリティショーへ

コロナ禍の影響で開催が滞っていた自動車の展示会が、モビリティショーと名前を変えて今週から開催されます。

コロナ禍の影響で開催しなかったというよりは、世界的な電気自動車ブームに乗り遅れた日本車メーカーが、何を売りにしたら良いか分らなくて開催できなかったという方が正しいかもしれません。

自動車以外に鉄道やLRTや、はたまた胡人俑の電気スクーターや電動キックボードなど、移動に関するものを一気に紹介していこうと言う訳です。今後自動車産業が衰退してパーソナルモビリティに移行しても、ショーが永らえるように誰かが考えたのでしょうか?

自動車産業が衰退してしまうとは現状では考えにくいですが、娯楽の王者だったテレビが色々なメディアが登場して地位が落ちたことから考えると、自動車がいつまでも主役である必要はありません。

2~3年前はハイブリッドではないバッテリー電気自動車が一気に主流になる勢いでしたが、ガソリンを使っていた自動車が電池で動けばガソリン価格は大幅に下がるでしょうから、電気自動車のコスト優位性がなくなって低価格化への圧力が高まるでしょう。つまり、産業として見た場合に電気自動車の将来姓も判断し辛いところです。

心配なのは、色々なモビリティの選択が可能になってきても、法整備が追いつかない恐れがあります。

すでに電気式スクーターやキックボードなどで交通法規の運用面で問題が出てきていますし、モビリティショーの中でも運用面についての意見を討論する場を設けても良いかもしれません。

これまでバスやタクシーは公共交通機関としての役割がありましたが、ライドシェアなどが普及してくると公共交通機関の定義も変えていかなければならないでしょう。

自動車産業はもっと小さな企業が作る電動自転車や電動キックボードと競い合うようになり、またインターネットによる在宅勤務はモビリティ自体を一部不要にします。

もう自動車メーカー間で競争をしていた時代は過ぎ去ったと言えるでしょう。

あらゆる産業が何らかの影響を及ぼし合うモビリティショーは、これからも目が離せません。

ライドシェアって白タクのこと?

タクシードライバーの不足によって、都市部での移動手段が逼迫していることを受けて、ライドシェアが検討されています。

ライドシェアというから、てっきりタクシーに同じ方向の乗客が一緒に乗るのかと思ったら、悪評高い白タクのことでした。

菅元総理もライドシェアの推進派だそうですが、USでの実用例を真似て日本でも同様の取り組みを行おうと言うことらしいです。

確かに、京都などの観光地に押し寄せるインバウンド客によるタクシーの需要を満たすには、既存のタクシー会社の企業努力だけでは十分でなく、制度的な改善が必要なのでしょうが、USで成功していることと同じことを日本で実現できるかといえば、なかなか難しいように思います。

そもそも自動車の運転に関しては、USと日本では道路事情や法規の完成度合いが違います。たとえ自動運転がUSで実用化されても、日本で同じレベルに到達するには技術的なハードルがいくつもあるでしょう。

ウーバーイーツが目立つようになった時に、自転車やバイクの危険な運転が問題になりましたが、同様の問題が起こることを危惧します。

タクシードライバーがどれほど優れているかよく分かりませんが、少なくとも2種免許を取得していますから、それなりに安全基準を満たしているものと思います。

ライドシェアと行っても、これまでの実用例からタクシー会社に所属して、講習の受講や報告義務が課せられることになると思いますが、これらがあまり厳格だとタクシー運転手の養成をしているのと同じですし、ゆるすぎるとタクシーが怖くて乗れなくなり業界が崩壊する可能性もあります。

なかなかさじ加減が難しそうですが、ライドシェアなどというUSから来た制度を真似るのではなく、2種免許やタクシー業界の慣習に風穴を開けるところから始めて、日本のタクシー業界の問題点を改善していく方が良いのではないでしょうか?

そもそもこれまで素人だった人が急に他人のリクエスト通りに運転できるわけではなく、それなりに運転できる人は選ばれるでしょう。

観光客の足を確保するのは大事ですが、町中の安全を最優先して解決していただきたいものです。

日本人の給与が低い理由の一つ

日本人の給与が、世界的に最低レベルであると言われてすでに久しくなりました。

90年代初頭には日本人の給与が高いために国際競争力がないと言われ、どんどん海外に生産拠点を移転して行ったお蔭で、国内の技術も移転されて別の理由で国際競争力が下がり、給与も下がってすっかり逆転してしまいました。

日本円の為替レートが90円を切っていた頃と比べると、現在の150円なら4割給与が下がって見えますから、円の価値が下がったことが給与低下の理由の1つであることは明らかです。

しかし、相変わらず国内の収益には偏りがあって、本来価値のないものにお金を費やす傾向があるように思います。

例えば国際競争力がなく、特許や特効薬の排出が殆どない製薬業界の給与が高いのは、健康保険の仕組みや業界の発言力に支えられていますし、日本特有の業界と言われる商社が相変わらず高い給与を得ているのも、全体の給与を下げている理由ではないでしょうか?

芸能界やテレビ局の高給も、本来の価値の創造の観点からはそれほど価値がある産業とは言えず、それらが唯一生き残った輸出産業である自動車業界の給与より高い妥当性があるとは思えません。

日本は、いわゆる社会主義的に値段が決まってしまう傾向が強く、業界の癒着や政治への圧力が強い影響力を持っています。

本来の市場経済は、開放的な競争があって妥当な価格や産業の収益に結びつくわけですが、どうも日本は資本主義が定着しているとは言えないようです。

社会主義国における給与が低いのは、充実した社会福祉によって相殺されるわけですが、日本は給与が低いからと言って特段社会福祉が充実しているとは言えず、社会主義と自由経済の悪い特徴が目立っているようです。

何事も競争原理だけで解決できるものではないでしょうが、競争原理が働かないのに国際的に給与を比較しても意味がありません。

一度歪んだ産業構造を見直すことが必要ではないでしょうか?

名古屋城の木造化は必要か?

江戸時代の本物を木造建築で再現する計画が、思わぬ方向に向かっています。

そもそもコンクリート建築と木造建築の価値観の違いで揉めているところに、エレベーターの設置によってせっかく木造建築にしたのに本物感が失われるという意見と、バリアフリーを目指すべきだという意見が衝突しています。

まあいずれはどちらかが譲歩できるところは譲歩して、どっちつかずの結果に落ち着くのが常なのでしょうが、ここでもう一度文化遺産や歴史的建築物について考えてみたいと思います。

例えば絵画の場合、原画を修復したものと、レプリカしたものは明らかな価値の差があるように思います。いかにレプリカが精巧であったとしてもそういうレベルの問題ではありません。

ただ建築物については、戦争や天災で破壊された場合、絵画に比べて遺産としての価値があるように思います。

絵画の場合は、画家の筆使いやキャンバスの質感、保存状態の良し悪しが決定的に価値を持ちます。

しかし、建築物の場合は、そもそも作者たるべき大工さんが誰かも分かりませんから、「のみ」や「かんな」のタッチが話題になることはありません。

名古屋城ほどの規模になると、歴史的にこのような立派な建造物がある時代にある人物によって建てられたということが重要なわけで、本当に存在したことが歴史上証明されていれば、別に建築物としての本物感は重要でないような気がします。(あくまで個人的意見です。)

もし、木造建築でとてつもない難しい工法であったとか、世界一高い木造建築だったとかなら、木造以外で再現しても存在価値がないかもしれませんが、名古屋城を今更木造建築にしたところで、本物と同じ材料で作ったというだけであって、それほど本物に近づいたという気がしないのではないかと思います。

ということでここでの結論は、そもそも現状の名古屋城を大切に守っていけば良いのではないかと思うのです。

現状の金のシャチホコにも結構思い入れがある人達も多かろうと思いますし、今の名古屋城を建造するときもその時の最善を尽くしたのでしょうから、何もわざわざ壊してまで似たようなレプリカを造りなおす意味はないと思う次第です。

運転手のなり手がいない

今、路線バスやタクシーの運転手のなり手がいないために、バス路線を廃止したり繁華街のタクシーを増やせないという問題があります。

それら以外の職業でも、以前なら問題にならなかった人手不足が深刻になっていて、一体人々はどこで働いているのだろうと疑問に思ってしまいます。

ホンダが自動タクシーをGMと共同で開発して2026年に走行を開始する予定だそうですが、確かにタクシーの運転手がいなければ自動運転を早急に開発する必要があるでしょう。

タクシー会社が自動運転車を購入して運行したら、タクシー会社としては利益も出て経営者にはこれまでと変わらないかもしれませんが、運転手はもう必要ありません。

同様のことが産業のあらゆる場面で起こっていけば、労働者が自動化されて消えていき、経営者だけが残ってお金を稼ぐ訳です。

そこにいた労働者は、何らかの方法でお金を稼がないと自動化されたタクシーやバスに乗ることができません。

世の中にはお金を持っ経営者である富裕層と、仕事もお金もない貧困層に分かれてしまうことになります。

それはそのはずで、機械化によって自動化されれば業務は全て機械がこなすわけですから、人間の仕事はありません。

人間がする仕事は、自動化された設備に投資するだけです。何らかの方法でお金を調達できる人でなければなりません。

これまでの社会では、学歴や知識や技能があればお金を稼ぐことができましたが、それらは全て自動化に飲み込まれてしまって、意味があるのはお金だけになります。

市場経済の成れの果てと言えば、経済学者などはとっくの昔に予想していたのでしょうが、現実が近づいてくると、なるほどと頷いているどころではありません。

自然科学のイノベーションでは経済に結びつくことしか価値がないので、この状況を打破できないでしょう。

何らかの社会科学的なイノベーションが必要です。

世界を見ていても、未だにこれまでの経済学に基づいた理論や推論に留まっています。

ノーベル賞級の社会変革が待ち望まれています。