大阪万博の話題がそろそろ増えてきた

開催まで一ヶ月に迫ってきた2025大阪万博の話題が出始めました。

盛り上がりに欠ける、前売り券が売れていないといったネガティブなニュースしかありませんでしたが、やっと完成したパビリオンの紹介や、会場内の様子がニュースに出てきて、現実味が少しだけではありますが見えてきたということでしょう。

なんせ何もなかった埋立地ですから、その途中経過はマスコミがまじめに報道しなければ自然には伝わりません。

この埋立地は何年も前から容易に立ち入ることもできず、橋も簡単には渡ることもできず、まさに海上の孤島でしたから、そもそも情報が入りづらい位置関係です。盛り上がらないのは当然で、存在感がなかったのです。

やっとニュースで展示内容が紹介され始めたのですが、しかし、それは最近ではコミケやなんとかショーで見たことがあるようなレベルであり、1970年の大阪万博当時の近未来感を感じる事はありません。

考えてみれば当然のことで、1970年にはTDRもUSJもなく、未来は希望に満ちていて人々に夢を見せる方法なんていくらでもあったのです。

今や将来に夢も希望もなく、現実から逃避する仮想現実がゲーム機で実現できているのですから、今更大金払って会場まで行って見たくなるような展示ができるかと言えば、かなり難しい。

名古屋の愛・地球博でも、永久凍土から出てきたマンモス以外に見世物は殆どありませんでした。せいぜい企業が最先端と言っている新製品のモックアップかデモぐらいです。

そういう意味では、大阪万博で紹介した未来のほとんどが、すでに人々の生活の中に入っているということで、55年間の人類の進歩を確認できる良い機会なのかもしれません。

世界が一巡してしまったということです。

まだ全貌が見えていませんから、これからあっと驚く見世物がお目見えするかもしれません。

万国博覧会というものはそういうものだと、あとから認められるような催しになってもらいたいものです。

人手不足ではなくて人材不足をどう解決するか?

「バスの運転手が足りないためにバス路線が廃止になる。」

最近良くニュースになりますが、その路線を利用する人以外はあまり関心を持つことはありません。

とっくの昔から地方の過疎化によって同じ話は何度も聞かされてきましたから、確かに珍しい話ではないです。

しかし、これを人手不足が原因だと思っていたら大きな間違いです。

路線バスを利用するとその運転手の多能ぶりに感心することがあります。

乗客への案内に料金精算、発車や停止の度にアナウンスしつつ、周囲の交通にも注意を払って安全運転。ただの経験やベテランだからできるというものではなく、その人に能力がなければできないことです。私なんかとてもできそうもありません。

これだけのスキルがなければできない仕事ですから、それなりの給与が与えられているべきですが、それがそうでないところに社会の歪があるわけです。

給与が高度な仕事に見合っていません。

下手をすれば成上りのコンサル頼みの社長よりも、バス運転手の方がよほど能力が必要でしょう。しかし給与は数分の1、下手をすれば数十分の1かもしれません。

よく企業で能力給を採用しただなんて話がありますが、本当に能力を判断できているでしょうか?

社長を含めて従業員の能力を、適正に判断する方法論が完成したなどという話は一向に聞いたことがありません。それは聞かないはずで、そんなものはないからです。

それを現実的に証明しているのが、人手不足、いや人材不足なのです。

適切なスキルに適切な給与が支払われていないのです

例えば地方自治体の首長や国会議員などは名誉職なのですから、無給でもやろう、やりたいという優秀な人材は今の日本ならたくさんいることでしょう。

大学の名誉教授はそれなりの実績を上げてきた人が勤めますが、基本的に名誉職で無給です。それでも任命されることは名誉ですから、ここに人手不足、人材不足は起こりません。

「人材不足」という社会問題は、「所得の2極化」という社会問題が本当の原因ではないでしょうか?

バス路線が廃止されて日本に張り巡らされた交通網が穴だらけになる前に、根本原因を究明する必要があると思います。

未来の無駄遣い

皆さんは未来に対してどのようなイメージをお持ちでしょうか?

この春から大阪で開催される万国博覧会でも、未来についてのメッセージを込めた展示がたくさんあるようですが、現在における「未来」は明るく待ち焦がれるものなのでしょうか?

ハリウッド映画が衰退しているとも言われますが、映画の世界でも未来は多数描かれていて、昔なら進歩した未来が描かれ、その後核戦争で廃墟のようになった世界が描かれ、最近はどうも方向性が定まらない混沌とした世界が描かれる映画が増えているような気がします。

1970年の前回の大阪万博では、数多くの新しいテクノロジーが展示され、明るい未来を夢見て会場に多くの人が集まりました。

誰も疑わない明るい未来があると信じていたのです。

しかし近年になって環境問題が顕在化して、安易に明るい未来を語ることが許されない社会になってきています。それなりにしっかりとした実行を伴うビジョンがなければ、明るい未来は来ない、そう考えている人が多いのではないでしょうか?

過去と言っても50年前もあれば100年前、300年前、1000年前というように様々な過去があり、目を覆うような悲惨な歴史もあれば輝かしい歴史もあるでしょう。

それと同じように未来も実際は一本調子の単純な変化ではなく、山あり谷ありの複雑な変化を伴うはずですが、どうも私達は一律に未来というだけで、明るく輝いていなければならないという幻想を抱いてしまうようです。

過去の歴史は反省はできてもやり直すことはできませんが、未来はかなりの部分を人類が築いていけるはずです。

今は将来の話題といえば年金の話ばかりでは面白くありません。ぜひ夢のある未来を想像できる大阪万博であって欲しいものです。

(それにしても会場の建設遅れや木造建築物の会期後の再利用ばかりが話題になって、肝心の万博の内容が一向に伝わってこないのは、本当に伝えるほどの中身がないからでしょうか?)

スマートシティとは?

皆さん、スマートシティってどの程度、理解と期待をされておられるでしょうか?

最近、仕事上の必要性からスマートシティに関するソフトウェアを調査しているのですが、その肝となるのがFIWAREです。

フューチャー・インターネット・ウェア(Future Internet Ware)という、分かりやすいと言えば聞こえは良いですが、昔から「フューチャー~」というものにはろくな物がありませんでしたから、あまり大きな期待は禁物です。

都市の機能をITによってスマートに解決するということのようですが、都市の機能って何でしょうか?

最近の話題だと下水道の老朽化の問題がありますが、ITでは到底解決できない大問題が地方自治体には溢れています。

スマートシティを目指すには、これらの問題を解決する方が重要だと思うのですが、それはさて置いて(さて置く訳には行きませんが)、一方でスマートシティを目指す活動が日本に限らずEUを中心に盛んになってきております。

その根底には、GAFAによって世界中のデータが牛耳られているのに対抗して、EUがデータ管理の覇者を目指すという目論見があるようです。

確かに今は何でもググればたいてい必要なデータを探すことができますから、データを牛耳られてその恩恵は一部の巨大IT企業のものになっているのは確かです。

しかし、都市とスマート化してそこからデータを吸い上げたとして、Googleが香竹したデータベースに比較して価値のあるものになるでしょうか?

地方自治体で活用が進められているのは、地方の自然災害や災害発生時の避難に関するデータの収集で、それらは公共事業としては価値があるかもしれませんが、そこにいくら投資したところでなにか価値を生み出して人類が幸せになるとは思えません。

単に意味がなく捨てることもできない大量のデータを保持するために、巨大なデータセンターのリソースに税金を費やして、一部のIT企業を潤すだけに終わってしまうように思えます。

FIWAREをの実証実験を4年間に渡って行ったらしいですが、結果としてデータの提供が十分でなく、また提供されたデータを流通して活用することはできなかったそうです。

何事も最初から成果が出るとは限りませんから、まだまだこれから改善できる可能性は否定できませんが、ただ単にデータを提供してもらってデータベースを開放すれば、人が喜んで自然に集まって来るというのは幻想であるということを理解すべきでしょう。

スマートシティの筋書きを、しっかりと考え直す時期に来ていると思います。

災害をハイテクでサポートできるか?

日本に住んでいて、日本は安全な国だと思っている方が大半だと思います。

しかし治安はともかく、災害に関するリスクは世界の中でも結構高いようです。

そこで災害を想定した避難訓練が各地で実施されているのですが、その中で最近流行のスマホとAIを使った避難ナビゲーションなるものが注目されています。

最近ニュースで見たのですが、デジタル放送中のテレビ画面に災害状況が表示され、地域ごとにアレンジされた適切な避難場所が指示されるらしいです。

またリアルタイムな避難指示がスマホやタブレットから出されるので、それを見ながら指定された避難場所に家族が集まるという仕組みです。

確かに阪神大震災のときに、被災した家屋にいた家族がどこの避難所にいるのか、近所の人に教えてもらって避難所になっていた幼稚園で再開できたという話を聞いていますから、災害後に家族が居場所を探すときに、何らかのシステムで情報が共有できれば良いのは確かです。

しかし、家でテレビを視聴していて、災害時にテレビ放送が継続して電気も止まらない想定では、そもそも避難する必要がないかもしれません。

電気やガスのインフラや、通信網が十分使える状態を想定した避難訓練もある程度意味があるのかもしれませんが、少なくとも阪神大震災のときにはせいぜいラジオしか情報を得る手段がなかったのですから、携帯電波が機能する前提の非常時システムは意味をなさない可能性が高いのではないでしょうか?

確かに近年は通信網の整備やスマホの進歩にゆだねられる事が多いので、何か新しいことを考えようとすると、どうしてもスマホや携帯電波網に頼らざるを得ないのかもしれません。

しかし、災害時に一番障害になるのはインフラの崩壊です。

電気、ガス、水道がない状態で如何に生活を続けることができるかを考えなければ、いつものように何でもスマホが答えを出してくれると考えてはいけません。

できるだけ原始的で、乾電池数本で可能な程度のローテクで構築することが、災害時のシステムに求められているのではないでしょうか?