インバウンドの変化

コロナ禍も一段落して海外からのインバウンド客への期待が高まっていますが、どうも以前ほど爆買いが話題になることが少なくなってきました。

ドラッグストアやデパートの化粧品売り場もインバウンド客が群がる事がなくなり、観光バスを連ねた団体旅行から個人手配の家族旅行に変化しているそうです。

80年代に日本の農協団体が世界中を駆け巡って始まった日本人の海外旅行ブームは、その後20年ぐらい小規模な団体旅行や家族旅行に移っていきましたが、それに比べるとコロナ禍という節目があったとは言え、インバウンド客の流行の変化は早いように思います。

購買型から体験型へ変化しているということですが、80年代のように情報が書籍や雑誌しかなかった時代なら流行に変化が起きるのに時間がかかったものですが、インターネット時代は最新情報が溢れていますから、流行もあっという間にやってきては過ぎ去って行くのでしょう。

ただ、今は珍しいから体験したいと思っても、本来その人が夢焦がれていたものではない限り、やはりインターネットの情報に釣られて体験型旅行に来ているだけの可能性もありますから、本当にインバウンド旅行者が体験型を欲しているのかどうかは、時間をかけて見定めないと行けないのかもしれません。

日本の地方にインバウンド客が押しかけて来るといって、交通機関の整備に予算を投じたり新規にホテルを建設するのは、もう少し動向を伺ってからの方がよさそうです。

まあ、海外の方が日本の地方の景色や文化、工芸などに希少価値があると教えてくれたわけですから、私達もそれらの価値を再認識して、インバウンド客の誘致のためではなく、守っていかなければならない日本の優れたものを再認識して大切にしていきたいものです。

エビデンスとポシビリティ

よく医学の分野でエビデンスがあるとかないとかが話題になることがあります。

たくさんのサンプルの結果を集めて、統計的に処理を行って科学的根拠があると判断するわけです。

しかし一方、昔から「可能性が否定できない」という曖昧な表現も使われ続けています。

で、大概はエビデンスがあると言われればそちらを信用したくなるわけですが、ではエビデンスがあるしっかりした根拠があるものと、可能性があるという根拠のないもののどちらが信用できるでしょうか?

そもそも、誰もが認めることなら議論するまでもなく自明ですから、エビデンスが必要になる時点で確実な結論などないことが分かります。すなわち可能性の範疇の話になってしまうわけです。

例えばある薬品の効用が、研究によって90%の人に効果が立証されたとしても、その薬を飲む本人が90%に該当するのか10%に該当するのかはやってみないと判らないわけで、結果として効かなかったとしたら「私は10%の方だったんだ!」と納得するしかありません。

結果が不成功だった後は、エビデンスがあろうがなかろうが自分の結果が全てであり、予想がいかに高い確率をエビデンスが証明していても、結果を覆すことはできません。

ですからエビデンスは学術的に可能性を保障するだけで、判断する上での参考にはなっても実施した結果にはなんの効力もないのです。

このことは当たり前ではありますが、エビデンスは研究としての単なる作法の一つに過ぎないということになります。

学術論文なら作法として必要だとしても、日常の業務や生活で「エビデンスがないからだ駄目だ!」などという輩には、まず「エビデンスがあっても可能性は変わらない。まずやってから結果で判断しよう!」と言いたいものです。