新卒採用と転職の矛盾

毎年4月になると通勤電車に真新しいスーツを着た、如何にも新入社員と見受けられる若い人たちを多く見かけるようになります。希望を胸に新しい環境に挑戦する雰囲気を感じられる、新しい年度を迎えるにふさわしい風景と言えるでしょう。

しかし、一方で新卒採用者の転職が問題視されるようになってきました。

企業としては定年まで働くことはさすがに期待していないとは言え、新人教育の成果の見返りがないうちに辞められてしまうと、採用や給与で投資した結果が出ないまま持ち出しになってしまいます。

最近は仕事がゆるいホワイト企業はスキルがつかないから敬遠されて、新人の間多少厳しくてもスキルを付けることができる企業が人気だそうです。

そして転職に見合うスキルが付いたところで、更に良い境遇を目指して転職するということが起こっています。踏み台にされた企業にとってたまったものではありません。

合法であれば許されるとは言え就職や転職の慣例というものがありますから、これまでの制度では対応できない状況になっているということでしょう。

すなわち、教育をしないと結果を出せない新入社員に最初から給与を出すことに矛盾がありますし、そもそも高い授業料を取って社会に役に立たない学生を教育していると思いこんでいる、大学を始めとする教育機関にも問題があります。

今後これまで以上に転職によって人材の流動性を確保する必要があるのなら、給与を抑えた試用期間を2~3年に伸ばすとか、インターンをもっと積極的に活用して、学生時に1年とか2年間、業務教育を含めて適性をお互いに確認し合う時間を設けるなどの改革が必要でしょう。

日本が長い間踏襲した終身雇用制はいろいろなバランスを保って成り立った制度でしたから、転職は自由だからといってそのまま受け入れていれば、どこかで破綻を来すのは目に見えています。

昔の大工や寿司屋の見習いが、まさにスキルを身につけて転職を繰り返す社会だったわけで、今の日本の企業はまだまだ終身雇用制度から抜けきっていないのでしょう。

産学が連携して将来を見据えたスキルを教育し、自信を持って就職できる社会を目指してもらいたいものです。

ハイブリッドの怪しさを払拭しよう!

最近になって、電気自動車はかえって環境に良くないという風潮になってきて、EV偏重に傾いていた自動車メーカー各社が方向転換を余儀なくされているそうです。

単に走っている間だけの炭酸ガス排出量で勝負していましたが、、電気を製造する工程や電池を製造・再利用する際のエネルギー消費などを換算すると、到底これまでほど省エネルギー・省資源とは言えないということが明確になったようです。

そんなことは小学生でも気づきますから、明らかに政治的な捻じ曲げがあったのでしょうか?実際にリチウムイオン電池などの再生が困難であることが社会問題化するに至って、このまま後回しにすることができなくなったのでしょう。

原子力発電所の廃炉問題に真剣に取り組むようになるまでにかかった年数に比べれば、まだ気づくのが早かったのかもしれませんが、最初から分かっていて黙っていたのだとしたら確信犯ということになります。

そこで、EVがだめならハイブリッドとなるかと言えば、巨大な電池を使うことについては似たようなものですから、やはり電池の再生についての問題を解決しなければなりませんし、それより本当にハイブリッドはガソリン車より炭酸ガスの排出量が少ないのかという疑問は残ります。

そもそも燃費の測定方法が、明らかにハイブリッドに有利になるように工夫されているのではないでしょうか?

燃費の計算の中に、ガソリンと同じく電池のエネルギー消費量を入れるべきですし、走行パターンにしても電池からできるだけエネルギーを取り出して、ガソリン消費を少なく見せることに注力しているように見えます。

EVと同様にハイブリッドも電池の製造・再生処理も含めて、もう一度社会として継続できるシステムなのかを検討し直す必要があると思います。

インバウンドの変化

コロナ禍も一段落して海外からのインバウンド客への期待が高まっていますが、どうも以前ほど爆買いが話題になることが少なくなってきました。

ドラッグストアやデパートの化粧品売り場もインバウンド客が群がる事がなくなり、観光バスを連ねた団体旅行から個人手配の家族旅行に変化しているそうです。

80年代に日本の農協団体が世界中を駆け巡って始まった日本人の海外旅行ブームは、その後20年ぐらい小規模な団体旅行や家族旅行に移っていきましたが、それに比べるとコロナ禍という節目があったとは言え、インバウンド客の流行の変化は早いように思います。

購買型から体験型へ変化しているということですが、80年代のように情報が書籍や雑誌しかなかった時代なら流行に変化が起きるのに時間がかかったものですが、インターネット時代は最新情報が溢れていますから、流行もあっという間にやってきては過ぎ去って行くのでしょう。

ただ、今は珍しいから体験したいと思っても、本来その人が夢焦がれていたものではない限り、やはりインターネットの情報に釣られて体験型旅行に来ているだけの可能性もありますから、本当にインバウンド旅行者が体験型を欲しているのかどうかは、時間をかけて見定めないと行けないのかもしれません。

日本の地方にインバウンド客が押しかけて来るといって、交通機関の整備に予算を投じたり新規にホテルを建設するのは、もう少し動向を伺ってからの方がよさそうです。

まあ、海外の方が日本の地方の景色や文化、工芸などに希少価値があると教えてくれたわけですから、私達もそれらの価値を再認識して、インバウンド客の誘致のためではなく、守っていかなければならない日本の優れたものを再認識して大切にしていきたいものです。

エビデンスとポシビリティ

よく医学の分野でエビデンスがあるとかないとかが話題になることがあります。

たくさんのサンプルの結果を集めて、統計的に処理を行って科学的根拠があると判断するわけです。

しかし一方、昔から「可能性が否定できない」という曖昧な表現も使われ続けています。

で、大概はエビデンスがあると言われればそちらを信用したくなるわけですが、ではエビデンスがあるしっかりした根拠があるものと、可能性があるという根拠のないもののどちらが信用できるでしょうか?

そもそも、誰もが認めることなら議論するまでもなく自明ですから、エビデンスが必要になる時点で確実な結論などないことが分かります。すなわち可能性の範疇の話になってしまうわけです。

例えばある薬品の効用が、研究によって90%の人に効果が立証されたとしても、その薬を飲む本人が90%に該当するのか10%に該当するのかはやってみないと判らないわけで、結果として効かなかったとしたら「私は10%の方だったんだ!」と納得するしかありません。

結果が不成功だった後は、エビデンスがあろうがなかろうが自分の結果が全てであり、予想がいかに高い確率をエビデンスが証明していても、結果を覆すことはできません。

ですからエビデンスは学術的に可能性を保障するだけで、判断する上での参考にはなっても実施した結果にはなんの効力もないのです。

このことは当たり前ではありますが、エビデンスは研究としての単なる作法の一つに過ぎないということになります。

学術論文なら作法として必要だとしても、日常の業務や生活で「エビデンスがないからだ駄目だ!」などという輩には、まず「エビデンスがあっても可能性は変わらない。まずやってから結果で判断しよう!」と言いたいものです。

夏休みの課題の所有権

インフォシークニュースに産経ニュースの出典として「夏休みの課題は誰のもの?」という記事が掲載されています。

兵庫県の公立中学校での課題であった夏休みの自由研究で、生徒から提出された作品の返還請求に対して学校側が紛失したため、その作品の所有権を争った裁判が一審二審と右往左往しているそうです。

右往左往というのは、一審の地裁では生徒の所有権が認められたものの、二審の高裁では学校側に所有権があるとなって、現在は最高裁で争われているということです。

これほど基本的と思われる生徒が制作した作品の所有権に、裁判所の判断があっちやこっちやと判断しあぐねている様子は滑稽であります。

まあないことでしょうが、その生徒の作品が実はとても価値が高いものになったとしたら、地裁判決の2万円の損害賠償どころの話ではありません。

よく似た話としては、青色ダイオードで有名になった企業における発明・特許の報酬問題がありますが、最近では一定の報酬を社員に与えるだけで、特許そのものの所有権は企業に属するというのが一般的になったようです。

特許の場合は、それを得るための企業側の費用や援助が相応に考慮されるでしょうし、特許申請の折に事前に社員と企業が契約を結ぶことが習慣になっていますが、学校の個人作品の価値が重要視されなかったこともあって、作品の所有権を議論することもなかったのでしょう。

ただ中学生の作品といっても、将来はどんな価値を持つか分かりません。学校教育における所有権の根本的な考え方が、今回の最高裁の判決で明らかになるのを待つことにいたしましょう。