日本大学のアメリカンフットボール部の問題で、大学に自浄作用が働くのか疑問を呈する記事が相次いでいます。
これまでにもいくつかの問題点を指摘されながら、表向き代表者の交代が繰り返されただけで、本質は何ら変わっていないとの疑念が漂っているのでしょう。
同様にビッグモーターのトップが問題発覚後交代しましたが、社内改革と称して真っ先に取り組んだLINEの使用停止も、ブラック企業の証拠隠滅が目的だとの指摘されました。
過去にも企業や政治組織や宗教法人など、大学以外の組織的犯罪が発生した後、浄化するにはかなりの長い時間と労力を要することがほとんどです。付け焼き刃の対策ではなく、元を絶たなければ意味がありません。
それだけ時間と費用もかかるのなら、最初から正しておけば無駄なことをしなくても済んだと考えがちですが、それはどうでしょうか?
そもそも人間は楽な方に安易に流されますから、それを組織が束縛することである一定の基準の品格や順法意識を保っているのではないでしょうか?
もちろん個人でも品性を保っている人も多いですし、組織でも崩れきっているところもたくさんあるでしょう。
しかし、基本的に組織になればそれなりの社会性を保とうとする修正力が働きますから、事件になる前に摘み取られる事が多いと思われます。
ですからよく「性善説」、「性悪説」と例えられますが、個人レベルでは性悪説が成り立ち、組織では性善説が成り立つというのが自然なような気がします。
個人を尊重する欧米諸国が性悪説を社会の基本と捉え、個人より組織を重んじる日本が性善説に根ざしているというのも頷けます。
組織によって個人を律し、世の中のために正しいと思われることを経営理念やスローガンとして唱え実行することが、組織としての統制となり力となって行くのでしょう。
不祥事を起こした大学や企業が急に理念を唱えだしても、「馬の耳に念仏」にしかならないでしょう。
しかし、時間がかかったとしても倫理や道徳の概念が失われつつある日本社会で、お手本となるべく立ち直った姿を見たいものです。