学校プールでの日焼け止め

小学校のプールで日焼け止めを使うことを禁止するかしないかで、また揉めているそうです。

東洋経済ONLINEの記事によると、保護者は日焼け止めを使わせたいのに、学校は使わせたくないと平行線のまま長年論争が続いているそうです。

簡単な話です。

将来皮膚がんになったときに小学校が責任を取れるのなら、日焼け止めを学校が禁止したらよいし、責任を取れないなら、日焼け止めを使う自由は児童とその保護者にあるでしょう。

紫外線を浴びることによって皮膚がんが発生しやすくなることは、タバコの害と同じぐらい医学的に証明されていることですから、それでなくても紫外線がきついご時世ですから、日焼け止めを禁止するなら水泳を希望者だけにするべきです。

そもそも学校の問題ややこしくなるのは、学校が権利がないことに口出しをし過ぎなのです。

今どき学校でプールに入らなくても、水泳スクールに行って屋内のプールで一年中泳げるわけですから、特に屋外で日差しの強いプールで強制的に泳がすことに意味があるとは思えません。

学校が日焼け止めを絶対にやめさせたいのなら、水泳をやめればよいでしょう。学校でやらなくても良いことをどんどんやめていけば、先生の過酷と言われる勤務も少しはましになるでしょう。

そもそも先生も紫外線を浴びるのは嫌でしょう? それとも児童には禁止して先生だけは日焼け止めが許されているのでしょうか?

学校教育で問題があれば、そもそもそれをやることが今の時代に必要かどうかを問うところから始めてみてはどうでしょうか?

「家族」と「恋愛」は別?

有名ユーチューバーが、芸能人の不倫で騒ぐのが理解できないらしい。

家族と恋愛は別だから、別に恋愛をしても家族には関係がないということらしい。

芸能人の不倫については、別にやりたければ勝手にやっていたら良いとは思いますが、大昔から「スター千夜一夜」なんて言う番組があって、関口宏氏や石坂浩二氏が司会をしておられた当時から、芸能人の注目される話題は結婚や離婚で昔からほとんど変わりません。

ですから芸能人として話題を提供しているだけで、別に他人に非難されることではないというのも一理あります。

ただ一般人からすると、勝手に相手が可愛そうだと思い込んでいるのかも知れませんが、これは当人同士の問題ですから他人にとやかく言われる筋合いではないのは確かです。

ところで、家族と恋愛は別と言われれば、それはそうだとしか言えないのですが、おそらく結婚という契約上、夫婦以外の恋愛は許されないという事になっていると思い込んでいる人と、そんなことは契約した覚えがないという人の両方が存在しているようです。

昔なら世間体というものが大事でしたから、大勢の意見には従わなければならないという圧力がありましたが、近年世間体や大勢の意見より個人の志向が優先されるようになってきましたから、これまでの常識が通用しないことも増えてきているように思います。

現代人の生活の変化のスピードに社会が全く付いてきておらず、世間体や常識が世代間で共有できなくなっています。

なんでもあり!

これからは単純に「痛くなければすべてOK」みたいになっていくのでしょうか?

どうしてレディは????か?

すみません、今日は愚痴です。

毎日電車通勤をしていたり、週末に買い物に行くと感じるのですが、どうして女性はこう人を突っつきたがるのでしょうか?

雨傘や日傘の先や傘の骨の先で突かれた方は、さぞかし多いことでしょう。

トートバックの尖った端やベビーカーの先端など、とにかく出っ張っているもので疲れたり押されたりすることが多いのす。

もちろん女性に限ったことではなくて、男性でも傘の先端で突き刺してくる輩はいますけど、経験的に女性からちょっかいを出してくることのほうが圧倒的に多いと思います。(個人の意見にはゆらぎがあります。)

で、どうしてそうなるのかと考えたのですが、第一に女性は持ち物が多い。しかも、自分で手に負えない程大きな、または長い持ち物を好んで持ちます。

ご自分では手に負えないとは気付いていないのでしょうが、混雑した電車で見かけて危ないと思った女性の持ち物は、5分もしないうちに必ず誰かを犠牲にします。

もちろん犠牲になった人がその場で倒れてしまうほどダメージは受けませんが、嫌がっているのはその仕草から明らかで、その日の不幸を憂いているのが手に取るように分かります。

よくベビーカーが公共の交通機関で問題になることがありますが、それはそうでしょう、大抵は「そこどけ、そこどけ、神輿が通る」の勢いですから、これを許せというのは無理と言うものです。

スーパーで買物をしていても、ベビーカーで他の人のアキレス腱を狙ってぶつかってきて、黙って許していたら2度でも3度でも連続攻撃!

で、もう一つ理由として考えられるのは、女性は空間認識力が弱い。つまり自分の持ち物の位置的な限界と他人の距離の見極めが下手です。

昔から「車体の左側に傷がある車の運転者は女性である」と言われます。

右ハンドル車の左側は距離感がつかみにくいので、距離感の把握が苦手な人は左側をよく擦ります。(右側を擦るのは単なる下手くそ!)

ですから、満員電車で傘の先端で突かれた方は、犯人が女性なら空間認識力が弱いと思って許してあげましょう。

しかし、連続攻撃を仕掛けてきたときは、隣に怖いお兄さんがいないのを確認してから文句を言いましょう。

じゃあ、男性ならどうするかって? 

それは喧嘩を売られているのですから、受けて立つか逃げるかはあなた次第です。

小学校の教員不足

最近、小学校の教員が不足していて、ひどいところでは専任の担任がいないクラスもあるようです。

昔なら教員には恩給があって長い休みもあり、女性は結婚してからも同じように続けられる、数少ない男女平等の職場で人気がありましたが、いつの間にか嫌われる職業になってしまいました。

受験が厳しくなってきているとか、PTAからの突き上げが厳しいとか、情報や英語の教科が増えて大変だとか、以前に比べてしんどい職業になっているのは確かです。

しかし、受験が厳しいと言ってもこれだけ塾が繁栄しているのを見れば、小学校が受験指導を十分にしていないことは明らかですし、親は共稼ぎで忙しくてPTAをやっている時間的な余裕がなくなっています。

情報とか英語とかの教科が増えているのは確かに負担でしょうが、そもそも小学校教員が専門性がないところにたくさんの教科を教えることに無理があるので、情報と英語に限らずすべての教科はせめて文系・理系の専門性を持ち合わせた教師が教えるようにするべきでしょう。

そうすると、長い休みが夏、冬、春に取れてこれほど楽な仕事はないように思うのですが、それでも忙しいのだとしたら、意味のない無駄な仕事、校長と教頭と学年主任からのパワハラが、以前の風習のままか、あるいはさらに助長されて教員を苦しめているのではないかと思います。

一般の事務職や営業でも、ここ30年ぐらいでかなり効率を上げてきていると思いますが、学校教員の業務効率は以前並みか、さらに近年悪化しているのではないかと思います。

それで良い教育が提供されていればよいのですが、教育に関する問題点は増えることはあっても解決していく兆しがまったくありません。

ここは近年の教員不足もあることですから、一気に近代的な教育を目指して以下の改善を提案したいと思います。

  1. 校長、教頭を廃止して、教員を学年主任と学級担任の2階層にする。(パワハラの温床にしかならないから。)
  2. 教科の担当は、教師の専門に合わせて1教科か2教科に限定し、専門外の教科は担当しないようにする。(理解していない教師に生徒を理解させることは無理があるから。)
  3. 担当教師が足りない時、あるいはもっと積極的に広域で進度レベルを分けたオンライン授業を行う。リアルタイムで行う必要はなく、数年内には動画として必要な量のライブラリーが揃うであろう。(せっかくコロナ禍で高価なタブレットを税金で配ったのだから。)
  4. 理解度確認テストは、現在の中間テストや期末テストのように期間を区切るのではなく、単元ごとに行い、その都度理解を確認できるように工夫する。
    • ここは色々と試みながら仕組みを作り上げていく必要があると思います。
    • 対面による質問の受付を、現在の学童保育のような時間帯に行うとか、基本的に授業は午前中だけにして、午後は理解を深めるための時間にするなど。(みんな公文式に行くのはなぜか?)
  5. 学年末にどこまで完了したかによって、来年度のカリキュラムを柔軟に制定する。(いい加減バルク教育はやめて、生徒に合わせた教育をしてよ!)

要するに、小学校のうちから本人の適性に合わせて、確かな専門性を持った教師による授業を行い、対面による理解度確認を組み合わせる、ということでしょうか。

世の中には色々な教育方法が提唱されているのに、戦後から一切学校教育は変わっていない訳ですから、日本の学力レベルが世界から引き離されるのは当然でしょう。

世間ではデジタル化で世界から取り残されたのを、マイナンバーカード一つで巻き返そうとしていますが、戸籍や住民票や住居表示をアナログ、あるいはアートのような曖昧な情報を無理やりデジタル化したところで、結局曖昧な情報では役に立たない動かないコンピューターになりかねません。

若者が進んでなりたいと思うような夢のある仕事に、小学校教員を変えることが、児童にとって、学校にとって、日本にとって必要だと思います。

AIが家族代わりになる

よくInfoseek Newsなどに結婚相談所の相談員の方の体験談が載っているのですが、それを見ていて思うのは、最近は何でも契約社会になってきていて、保険契約や雇用契約と同じように結婚も契約の一種のなってきているように思います。

最近の人なら「そんなのは当たり前、何を今更!」と言われるかも知れませんが、昭和の時代なら家族というのは契約を超えたもので、言ってみれば契約と宗教の中間ぐらいに位置している感覚でした。

宗教に近づくと何か怪しく思われるかも知れませんが、契約のように文章で明確に記述できるものでなく、精神的な「契(ちぎり)」のような感じがあったのではないかと思います。

それを「絆」だの「愛」だのと言っていたのですが、どうも最近の結婚相談所の様子を伺っていると、生活をするための条件が一致するかどうかが重要で、ひとたび条件が合わなくなってきた途端すぐに離婚するしかないような、つまり契約の「解約」がすぐに出来てしまうようになってしまったように思います。

別のそれが合理的で生活しやすいのならそれで良いのですが、もう忘れかけている昭和の考え方からすれば味気がない、人間味がないような気がいたします。

社会は時間とともに変化しますから、それはそれで受け入れるしかないのですが、従来の家族の役割、つまり一緒に喜びや悲しみを分かち合ったり、お互いをいたわり、励まし、尊敬し合うということができなくなってしまうのではないかと心配になります。

ところでAIというと人工知能、すなわち知能としての利用が進んでいますが、従来の家族の役割を担うことは出来ないでしょうか?

寂しいとすぐにペットを思い出す人がいるかも知れませんが、AIがその代わりになるとしたらそれはそれで楽しいのではなかろうかと思います。

そのような映画はいくつもあって、恐ろしい結果になることが多いのですが、心温まる情景もたくさんありました。

ソニーのアイボがそれに近いものかも知れませんが、知能が十分でなく表現力もいまいちです。

AIなら話し相手にもなりますし、たまに間違えるとしても相談相手にもなるでしょう。また相手の性格を分析して合わせるところは合わせて、たまにはひねくれてみたり反発したりもできそうです。

老後の孤独問題も含めて、AIが家族のように話し相手になれば、大きな市場になるかも知れません。AIとアンドロイドの技術を組み合わせて、2~3年後にはたくさんの製品が溢れているかも知れません。

ただし、人造家族が現実になることが人類の進歩と言えるかどうか分かりませんが。