本気で悪いと思っていない?

ドライブレコーダーは、あおり運転に遭遇したりもらい事故に遭ったときに、自分の無実を証明するツールとして推奨され、ここ数年装着する人が急激に増えてきました。

しかし、悪質な事故が起こったときに、その事故を起こした張本人の車に装着されていたドライブレコーダーで記録されたものが、事故の証拠として採用される場合があります。

事故を起こした運転者が不利になる証拠を、自ら差し出すことに違和感があったのですが、ふと考えてみると、事故を起こした本人は事故の原因が自分にあることを認識していないのではないかと思うようになりました。

事故の原因が自分にあって、証拠があると不利になると予測できれば、普通の神経だったら証拠を隠滅するのではないでしょうか?

それをみすみす警察に証拠として没収され、それが決定的な証拠となって事故の責任を問われるのは、自分が悪いことをしたという自覚がないのでしょう。

最近、YouTubeで回転寿司などでの迷惑行為の動画を公開する連中にしても、仲間内しか見ていないという勘違いがあるのかもしれませんが、そもそも悪い行為だとは思っていない訳です。

これは平気に悪事を働く人間が増えていて、悪いと知って犯罪を起こすよりも怖いことではないでしょうか?

未来では人々は段々と周りの人の行動に関心がなくなり、自分の好きなことを好きなようにやって、それが他の人に危害を与えようが全く気にならなくなる。

タイムマシンで未来を描いた映画でよくある想定です。

SDGsが話題になり、地球の環境を未来まで継続できるようにしようという活動が進められていますが、地球より先に人間自身が未来まで継続できなくなって行くような気がします。

人間が生命として、絶対に欠かしてはいけないものが失われてきたのでしょうか?

ラウンドアバウト(環状交差点)の存在価値

毎日通る構内道路に俗に言うランドアバウト(環状交差点)があるのですが、交差点を出るところで方向指示器の操作をする運転者がほとんどいないために、どこで交差点を出るのか分らず歩行者が右往左往しています。

そもそもランドアバウトのすぐ出口に横断歩道がある時点で、ランドアバウトとしての機能である途切れない車の通行を妨げてしまいますが、それほど交通量が多いわけではないのでまあ問題ないかと。

交通量が少ないならラウンドアバウトの必要がないではないかという意見もあるでしょうが、それはさておいて(さておくのか?)海外ではよく見かけるランドアバウトが、国内の道路交通法で制定されたのは2013年ということらしいので、まだ導入されてから10年しか経っていないので正しい利用方法も知れ渡っていないということなのでしょう。

ラウンドアバウトは信号機無しで平面交差を行うため、信号待ちせずに連続的に交差点に侵入できる利点があります。

つまり交通量街多いところで効果を発揮するわけですが、それなりに広いロータリーを形成しなければならないため、既存の道路を拡張して設置するのは難しいようです。

スペースに余裕がある箇所に限られてしまいためなかなか通りがかる機会がないので、ラウンドアバウトにどのような法規制があるのか知らない人が多いのではないかと思います。

基本的に環状交差点へは、環状部の交通が優先されるので徐行で進入し、出るときは手前の交差点を過ぎてすぐに左側の方向指示器を出して、目的の進路に進みます。

つまり流入時や環状路に留まっているときは、方向指示器は要らないというのが日本の法規のようです。

従来から利用している国々では、環状部で内回り方法への方向指示器を出し続けるイギリス式と環状部では出さないドイツ式があるようですが、その他にも国ごとに法律やしきたりがあるようです。

日本では侵入時に徐行となっていますが、本来USなどのようにこれから合流する流れを優先するYieldという概念が、日本の法規にも必要なのではないかと思います。

徐行と言われても許される速度が明確でなく、いくら徐行したところで安全確認を怠れば意味がありません。

今後日本でそれほどランドアバウトが普及するとは思えませんが、突如として目の前に現れたときに適切な対処ができるように、知識として知っておくのは必要だと思いました。

時代は核家族から個人家族へ

核家族化が進んだのは、昭和40年代からでしょうか?

都会の近郊に衛星都市が作られて、公団やその後マンションがどんどん建ち並ぶようになり、地方から都会に人が流れ込んでそれまでの生活が大きく変わった頃です。

その後、長らく核家族世帯が主流になっており、最近ではテレビで見る「サザエさん」の生活が、如何にも昭和の時代を色濃く反映していることに違和感を感じるほどになりました。

今どきおじいさん、おばあさんと孫が一緒に住んでいる家庭は、少なくなったのではないでしょうか?

ところで、近年は結婚をする年齢が上がっており、また結婚をしない人も増えているようです。

そうなってくると、核家族かから更に一人世帯で生活が完結する、個人家族なる生活形態が主流になってきます。

「家庭に愛はあるんか?」みたいなややこしい話は必要なく、愛だの恋だのも関係なく、経済的や合理的に同居した方が良いと判断したときだけ、パートナーとなった人と必要な期間だけ同居するような家族関係が、ごく一般的になってくるのでしょうか?

このあたりはテレビドラマの影響もあるのでしょうが、明らかにここ20年ぐらいで家族の関係について大きな変化が起こっているような気がします。

今やキャンプもお一人様で問題なく出来ますし、焼肉もすき焼きも一人前のメニューがどこにでもあります。

携帯電話やインターネットなどは家族で使い回すものではありませんし、コンピューターもパーソナルですから、生活上家族である必要性が昔ほど無いのかもしれません。

どんどん個人家族が普通に思えてくると、子どもを作るときだけパートナーを組んで、育てている最中に入れ替わったりするのもありかもしれません。

社会の仕組みが、これまでは核家族ありきで出来上がっていたものが、個人家族中心になってくると大きく変わることが予想されます。

教育問題や給与問題、社会保障の問題などを考えていく際に、個人家族の増加についても考慮していかなければならなくなるでしょう。

たとえ夫婦で老後まで一緒に過ごせたとしても、いずれは個人家族になります。

これからの基本となる個人家族について、真剣に考える時が来ているようです。

大学院は学歴ではなく職歴である!

少し前、学歴ロンダリングが話題になったことがありました。

政治家や芸能人の経歴で優秀な大学を卒業したことになっていても、実際在籍した記録がなく、よく調べてみると、夏休みに観光旅行を兼ねた短期留学で数日訪れただけだった、みたいなことが暴露されてしまって、学歴詐称が判明したような事件が相次ぎました。

卒業していないのに卒業しているというのは完全な嘘ですが、例えば大学入試には受かったけれども入学はしていないような場合、その大学を中退したと言ったらこれまた嘘になります。

2年間の教養課程を終えてからでないと中退は名乗れないはずで、大学中退なら4年制大学の3年次編入ができますから、大学中退はちゃんとした学歴と称してもよいでしょう。

ところで、大学院には院試と言われる入学試験がありますが、大学入試に比べると一般的ではなく、いわゆるコネがあったり、人気のない研究室では定員が足りていなかったりすることがあります。

ですから国立大学の大学院でも比較的簡単に入れる場合があります。これを別の意味で学歴ロンダリングと呼ぶ人もいます。

別に不正をしているわけではありませんが、大学院入試について詳しくない人を誤魔化している気配は感じます。

以前、ドクターを目指している後期博士課程の学生さんに聞いたのは、学歴と言えるのは大学卒業までで、大学院からは好きな研究を続けるだけということでした。

学力はどこの学部を卒業したかで判断して、大学院以降は学歴というよりは職歴ということでしょうか?

最近、著名な人でも大学院以降の経歴しか提示されない場合、おそらく大学の名前は出したくないのだろうと勘ぐってしまいます。

ただ、最近は大学もAO入試が一般的になってきて、本当の学力なんて分かりにくくなっています。

要するに、学歴や経歴などのラベルで人を判断するのはやめて、その人の能力を見抜ける力を養わないといけないということなのでしょう。(まあ、それができないからラベルで判断してたんだけど、、、)

一生涯勉強を続けるということ

最近は社会の変化が速く、それに伴って仕事で必要になるスキルも変化して、またスキルの種類も増えてきています。

以前なら、学校を卒業するまでに学んだスキルさえあれば一生そのまま安泰で、勉強は学生だけがするものと高をくくっていれば良かったのですが、近年通常の業務を行うだけでも覚えなければならない事が増えて、さらに業務改善やら省エネ化やら機械学習やらで飛躍的にこなさなければならないことが増えています。

30年ほど前にパソコンが一般の業務に使い始められてから、業務の効率化という掛け声の割には効率が上がった実感は全く無く、無駄な作業が増えていることを嘆いておられる方も多いのではないでしょうか?

最近、おとなになってからの教育機関とやらがやたらと蔓延ってきていて、昔は大学予備校が流行っていたのが少子化や浪人の減少によって、社会人を対象にした教育カリキュラムが目立つようになってきました。

しかし、社会の変化が激しいと言っても、誰かの策略に踊ら去れているだけで、一向に社会が進歩しているようには見えません。

ただ単に新しい商売のネタを作るために、あれやこれやと新しいスキルを増産しているだけのような気もしてきます。

本来スキルは道具ですから、少ない数のスキルを駆使していろいろなものに仕立て上げていくはずですが、今や業務の数だけスキルが必要なのではないかと言うぐらい、スキルが世間に溢れかえっています。

それでそのスキルが長く利用できるものならば、それなりの時間をかけて習得に励むのもよいのですが、勉強に費やす時間に比べてそれほど役に立たないスキルも数多くあるわけで、やたらと手を出すのは禁物です。

スキルがたくさんありすぎて、どこかのゴミ屋敷のようになっています。

役に立たないスキルははっきり社会から捨て去って、本当に役に立つスキルだけを深めていきたいものですが、皆さんはゴミ屋敷のような社会の方がお好きですか?