ChatGPTに3つの反応

ChatGPTが話題に上って数か月たちます。

最初は物珍しさに驚き、次はその驚異的な能力におののき、それが人間の能力を凌駕するのではないかという恐怖に変わり、そして最近ではインターネットで仕入れた情報を使ったビジネスモデルに疑問を唱えるようになりました。

人々の対応には大きく3つに別れているように思います。

1つ目のパターンは無反応。まったく関与せず、と言うか頭が固くてChatGPTやAIが何なのか理解できない人たちです。

実は意外とAIの正体を本当に理解していて、すでに達観しているだけなのかも知れません。

2つ目のパターンは楽観的。人より早く新しいテクノロジーを使いこなして、少しでも楽をして人を出し抜こうとする人たちです。

新しいテクノロジーが出現したら必ずこのような人たちがいるもので、俗に言うエバンジェリストなどの開拓者精神たくましい人たちで、事件台となって色々試行錯誤をしてテクノロジーの普及に貢献する人たちです。

3つ目のパターンは悲観的。AIによって人類が滅ぼされるのではないかという陰謀論的な思考をする人たちと、ChatGPTなどのAIが人類の共通の資産であると思っていたインターネット上の情報を牛耳って、一部の企業が金儲けに結びつけていることを疑問視する人たちです。

人間の職業の中で将来なくなるものがあるかどうかという議論は、占い的な要素もあって誰でも飛びつく面白い話なのですが、話題的にはありですが議論としてはあまり意味がありません。

やはり一番問題がありそうなのは、AIによって人類より進んだ文明ができてしまうのではないかという不安でしょうか?

ただし、今のところAIのトレーニングはまだ人間がコントロールできているみたいですが、実はその人間が一番の問題です。

インターネットやあらゆるデジタル機器から溢れる情報を、一部の企業や国家が独占的に使用しているところに、決定的な問題が潜んでいると言えるでしょう。

これは企業が金儲けのために使用するばかりでなく、暴力的な国家が関与すると危険です。

そうなれば核の驚異と同様に、AIの驚異が人類を破滅に導く可能性があります。

人類がまた1つ禁断の木の実を手に入れてしまった言えるでしょう。

子どもの声は騒音か?

「子どもの声は騒音ではない」を法律化する可能性を検討するとか。

何が騒音で何が騒音でないかは、なかなか定義が難しいものです。うるさいと感じるのはその人の感覚次第ですから。

音楽が好きな人は、ピアノなりバイオリンなり、エレキギターの音に聞き耳を立てるでしょうし、飛行機好きの人は空港の騒音が好きだという人もいるでしょう。

ただ好きな音だとしても、意図しない時や四六時中その音の中にいられるかというと、また話は別です。特に長時間続く騒音は体験してみないとなかなか理解できないでしょう。

街の中の公園が、子どもの声がうるさいという苦情によって閉鎖されたというニュースがありましたが、それも程度の問題で、本当にうるさかったのかも知れませんし、過剰な反応なのかもしれません。

政府関係者の話として、ドイツでは子どもが発する音は法律で騒音とは見なさないと決められているそうです。

世界標準化を目指す政府としては、ドイツを見習って同様の法律を制定しようとするのでしょうが、日本とドイツや西欧諸国とは少し文化が違います。

一般に西欧諸国では、子どもは小さいときから社会人としてのマナーを教えられ、公共の場での所作には厳しい傾向があります。

よく親が子どもに”No screaming!”と叱っている場面に出くわしますが、公共の場で子どもが不必要に騒がないようにしつけています。

日本みたいに「キャー」とか「キー」を公共の場で連発する子どもなんかいません。(本来「キャー」は危険な目に遭った時以外は禁止です。)

日本を始め、アジア諸国は文化的に子どもは宝という考えがあるのか、概して子どもに甘いです。特に身内に対して甘過ぎる!

自分の子どもが他人に迷惑をかけても平気な親が多いです。

法律の前に、まずしつけ!

そうすれば法律なんかで決めなくても、子どもの声が騒音なんて思う人はいなくなるのではないでしょうか?