インターネットで情報が飽和した?

相変わらず続いているように見える回転寿司テロですが、日本中でこれほどまでに問題が大きくなっているのに、未だに収束の兆しが見えません。

よくアメリカ映画で銀行強盗をした犯人が、犯行直後にダイナーのテレビでニュースを見て足早に逃げるというシーンがありますが、この回転寿司テロの犯人はニュースを見ていないのでしょうか?

どうも最近テレビや新聞が第一の情報源でなくなったために、ニュースの伝わり方が遅くなった、あるいは日本中に伝わらなくなったような気がします。

あるいは犯人たちが住んでいる界隈の仲間内だけの社会があって、その中で受けたいだけで、日本中を騒がせるつもりはないという感覚があるのかも知れません。

非常に狭い範囲の人のことしか考えられないというか、仲間内だけが社会だと錯覚しているのでしょうか?

今、レストランやファーストフフードでさえ「映え」ねらいが多くなりました。SNSに投稿すと文字通り世界中に知れ渡る訳ですが、自分の仲間に対しての受けだけを狙って同時に公共の目に晒してしまうことを想像できないのでしょう。

以前、「グローバル」がもてはやされたことがありましたが、その全く逆で「ローカル」、しかも「身内」にしか考えが及ばないのです。

インターネットが普及した結果、以前より世界中のニュースが時差なしに飛び込んで来るようになって、溢れる情報に人間の処理能力が飽和して(サチって)しまって、逆に限られた身近なことしか考えられなくなったのでしょう。

これは日本だけに限らず、世界中で徐々に進行していることかも知れません。世論や趨勢を気にすることもなく身内の受けだけを狙うのは、どこかの国と同じだと言えましょう。

インターネットに溢れる情報は、すでに人間の処理能力を超えているのかも知れません。

情報に著作権はあるの?

よく考えてみると、インターネットにはサイトが無数に合って、それぞれのサイトにはいくつかのページがあって、そのページごとに検索されてユーザーが閲覧します。

そして、その検索順位にはある秘訣があって、その秘訣は事もあろうに事態が変化するたびに勝手に切り替わってしまいます。

インターネットはとても不確実で曖昧な世界です。

以前からあったYahoo検索の登録制にすれば、サイト運営者はYahooの方針に従わざるを得なくなりますし、Googleが検索の主導権を取ればサイト運営者はGoogleの機嫌を損ねないようにしなければなりません。

ここまでがインターネットが隆盛して現在までの話。さてAIの登場で話は少しややこしくなってきます。

これまで表向きはあくまでサイトが主体で、その運営者である個人や企業などの団体がインターネットの情報を管理していました。

それがアクセスされるかどうかは別にして、情報そのものはサイト管理者の手の中にありました。

まとめサイトと称して人のサイトから情報を抜き取って来る企業などは、少し前までは大手を振ってインターネットに蔓延っていましたが、今は禁止されていると言っていいでしょう。

しかし、サイトが管理してきた情報を、AIがスクレイピングして勝手な方法でダイジェスト化して再販する時代になろうとしています。(これを再販というかどうかは定かではありませんが。)

この流れは止めがたい時代の変化だと思いますが、人がやってだめなことはAIがやってもだめなように思います。AIがやれば犯罪も仕方がないとは誰も考えないでしょうから。

そうすると、AIには別の方法で地道に情報を与えてやらないといけなくなります。例えば論説評論家が毎日新聞を何紙も読んで情報を覚え込むように、AIに新聞からの情報を咀嚼してから詰め込むとか。

ここで疑問が生じるわけです。情報って書作権で守られるものなの?

情報や事実は自然に発生するものですから、人間が創作した著作物ではなく自然に存在していて、人間の所作によって生じた創作物ではないということになるでしょう。

今、AIが取り扱う情報や論理などの本質を問う論議が必要な気がします。

共存共栄

まあ世の中には反発しあっているようで、実は持ちつ持たれつの関係にある間柄が多くて、それで均衡を保ってそれぞれの存在価値を見出していることも多い訳です。

例えば歯医者さんに行けば、歯科衛生士さんが出てきて歯磨き指導とやらをやってくれるのですが、本当に歯磨き指導に効果があるならば、歯医者さんの出番が減ってしまうので、それほど効果がないことを丹念に指導してくれている訳です。

あるいは自動車のディーラーに車検を出した時に、完璧に新車に近い出来栄えにしてしまうと、新しい車を買ってもらえなくなるので、適当に壊れるように仕向けるのも商売として当然なのでしょう。

また警察も、世の中からすべての悪が消え去ってしまったら警察の存在価値がなくなりますから、大きな問題ならない程度の悪は温存しておくことも必要かもしれません。

裁判所にしても、世の中から争いがなくなれば必要なくなりますから、適当なレベルの犯罪や揉め事までも駆逐してしまったら出番がなくなります。

そう考えると、世の中はおそらく太古の時代から今日まで、一定の均衡を保っているからこそそれぞれの商売が成り立っている訳で、均衡が保たれなくなった途端にその存在は消え去ってしまう運命にあるのです。

ですから世の中のニュースを見る時は、適当な程度で頻度の問題で均衡が取れていと思えるときは、「世の中は適当に平和だな」と思えばよいのでしょう。

よく中庸が程よい加減だと言いますが、善と悪もバランスが取れていれば目くじらを立てる必要もないのかも知れません。

善玉菌と悪玉菌のように!

電動工具は脱炭素か?

脱炭素化に向けて電動工具が普及するというお話。

カーボンニュートラルと電動工具がなぜつながるのかというと、これまでエンジンで駆動していた草刈り機やチェーンソーを充電池による電動工具化して排ガスをゼロにすることで、温暖化ガスの排出を減らそうということのようです。

京セラが子会社のリョウビを通じて欧米諸国に電動工具を拡販していくというそうですが、同じく電動工具メーカーのマキタも、電動工具を脱炭素化の切り札と考えているそうです。

従来、欧米では手持ちの電動工具が日本より広く普及していて、ドイツなどではジグソー一つで家を建ててしまう人がいると聞いたことがあります。

ですから海外には有力な電動工具メーカーがたくさんあり、ドイツ製やスイス製のボッシュはジグソーの開発メーカーとして有名ですし、米国にはDewalt、PORTER-CABLE、Black and Decker、Craftsmanなどがありました。

もとより欧米では自宅のリフォームは家族でやってしまいますから、電動工具とその他の建築資材はHome Depotなどのハードウェアストアに揃っています。

日本でも最近はホームセンターが人気で、その気になればかなり大掛かりなものでも素人で作れるぐらいの工具と材料が売られています。

以前なら電動工具はマキタ、日立、リョウビが3大メーカーでしたが、 その後合併などで勢力に変化があるようです。

ただ電動工具本体だけでは切ることも穴を開けることもできません。

日本は刃物で有名な産地がいくつかあって、それらの産地で優秀なドリルビットやのこぎりのブレードが作られるからこそ、日本の電動工具の優秀さが引き立つというものでしょう。

最近はあまり日本から輸出できるものがなくなってきて、貿易収支が赤字になったりしていますが、電動工具と優れた刃物の合わせ技で、日本の電動工具が世界を席巻するようになってもらいたいものです。

度が過ぎ始めた社会

SNSやYouTubeで羽目を外した登校や動画が炎上する事件が相次いでいます。

まあ別に公開したから社会問題になっているわけで、昔から公開せずに同様の悪事を働く輩もいたでしょうから、悪い人が増えたかどうかは炎上の数と一致するかどうかは分かりません。

悪いことを公開してこんなに大問題になるとは思わなかったというのが、多くの犯人の言い訳らしいですが、確かに悪いと分かっていれば隠すのが普通でしょうから、全く悪いことだとは思っておらず、ウケて喜んでもらえると勘違いしたのでしょう。

ウケを狙ってコケることはよくあることで、別コケても悪事でなければただ自分がコケておしまいなのですが、公共の衛生問題に関することは問題が大きくなって当然でしょう。

ももうほとんどまともなウケ狙いではウケてもらえず、どうしても度を過ぎてしまうのでしょう。これはテレビ番組や映画の世界でも、以前は扱わなかったような際どいテーマや話題が取り上げられることはあります。

コンテンツ不足というのでしょうか、何か突飛なことでもしでかさないと振り向いてもらえないという状況は、情報過多の社会では起こらざるを得ないのでしょうか?

香辛料に慣れてくると、もっと辛いものを要求するようなもので、もっと落ち着いた情報、ホッとするような穏やかな情報や話題で、奥行きがあって深いものを求めるようにならなければならないのかも知れません。

テレビ番組の内容がどんどん過激化して、ある意味社会全体がオタク化して普通の感覚から外れてしまっているような気がします。

もちろん文化や伝統は、少し外れた新規性から生まれるものかも知れませんが、それを熟成することなくすぐに飽きてしまいまた別の刺激を求めることを繰り返した結果が、昨今の社会問題として吐出しているのではないでしょうか?

知的好奇心をくすぐりながら、上品な文化を導き出すような情報リテラシーの発案を待ち望んでいます。