この辺りの話ってあまり真剣に語ることが少ないのですね。そこであえて一説。
「苦しい時の神頼み」と申しますが、初詣も含めて成就するかしないかの願い事を、謙虚に神様にお願いすることで幸運に導いていただこうとするのが、日本人の心であります。
もちろん箸にも棒にもかからないような高望みをしても神様はお見通しですから、望みを叶えていただくことはできません。
それなりに努力をして、どっちに転んでもおかしくないぐらい微妙なところで、神様にちょっと背中を押す程度に力添えをして頂く事ができるということなのでしょう。
神様のご加護は大変ありがたいものでありますから、それなりのお礼をしなければなりません。ですから、新年お初詣の際にはお賽銭を、そして願いが運良く叶った折にはお礼参りをしなければならないのはご承知のとおりです。
さて、現実の世界を見渡しますと、コネや賄賂といった犯罪が引きも切らずに蔓延っております。
特にニュースになるのは大物の大金を積んだ案件ばかりですから、世間の批判も強うございますが、日常的には学校や医者の先生へのお歳暮やお中元、会社や政治家の袖の下や賄賂がまかり通っております。
で、お賽銭と賄賂は性格としてはほぼ同じものと思われ、叶うか叶わないか瀬戸際の願いを叶えるための最後の願掛けであるわけです。ここが重要なのですがどちらもお金が絡みます。
片や願いを叶えることが神がかり的な神様と、願いを叶えることが権力越しの権力者とどちらが悪者なのか?
権力によって叶えさせてあげられる権力者は、もらったお金に見合う対価を与えることができますが、神様は実は知らぬ存ぜん、お賽銭に見合う働きが科学的に証明されたことはありません。
望みを叶うために賄賂を渡す者とお賽銭を渡す者は、やっていることはほぼ同じでしょう。
しかし、受け取った者は、望みを叶える権力を持ったものが罰せられ、知らぬ存ぜんの神様は罰せられない。
お金を受け取って何もしない(と思われる)神様が善で、賄賂に見合った権力を振るった権力者が悪。
じっくり考えると、私たちのやっていることは理解しがたい。