宗教とLGBTQ

サッカーワールドカップは世界中が注目するために、オリンピックと同様に様々な社会問題を提議することがあります。

今回はLGBTQを支持する腕章がFIFAによって禁止されました。

参加国が問題視する風習が開催国のカタールに存在しているということですが、余計な悶着を避けるために予めFIFAが手を打ったということでしょう。

会場内でのビール販売も宗教的な理由で禁止されて、大会オフィシャルスポンサーのビール会社が大量のビールの行き場がなくなって苦慮しているとか。

販売できないのならせめて優勝時の祝賀会でぶちまけてもらったら、勝利の酒として名が売れると考えるのは背水の陣か。

禁止されることが最初から分かっていれば大会スポンサーにはならなかったでしょう。

スポーツの場面で政治的なメッセージを出すことは禁止されていますが、開催国の宗教的に禁止されていることを、人権に結びつけて批判するのはかなり危険に感じます。

あらゆる人権が守られるべきだとすれば、宗教的な戒律の多くは人権侵害になるのではないでしょうか?

戒律を守ることによって忠誠心を示すことを人権侵害と捉えれば、何らかの制約を伴うあらゆる関係性、宗教に限らず労使関係や親子関係までもが人権侵害とみなされかねません。

また本人が納得していれば人権侵害に当たらないかというと、洗脳されている場合もあって、納得が本当に本人の意思なのか分からなくしています。

中東で開催された事によって、これまで目立っていなかった争点が掘り起こされてしまったのかもしれません。

サッカーワールドカップの勝利に思う

今回のワールドカップは、日本でもそれほど盛り上がっているようには見えなかったのですが、ドイツとの一戦で一気に盛り上がったようです。

下馬評は散々でしたが、同じチームと監督がこれほどまでに見違えるようになったのには、驚きとともに普段の生活でも見習うことがありそうです。

古来、日本の文化には「静」を重んじる傾向があって、時間が経てばなんとかなる(「時は金なり」、「石の上にも三年」など)やじっくりと取り組むべし(「急いては事を仕損じる」、「急がば廻れ」など)といった教義が多かったように思います。

しかし、サッカーのようにじっくり構えているとあっという間に時間が過ぎてしまうようなスピード感のある競技の場合は、悠長に構えていることが正しいはずはありません。

今回のサッカーの試合では、これまでなら後半の最後の最後に選手交代をするようなことが多かったのに、後半早々から手を打って、その後も継続して修正を行ったことが勝利につながったと解説されています。

今回のワールドカップは、日本のサッカーが大きく変わる節目になるかもしれません。

これからも試合が続いて行くと、日本の戦術を見透かしたような手を出してくるチームも出てくるでしょうが、さらにその上を行く妙手を出して勝ち進んでもらいたいものです。

日本の企業経営も、事なかれ主義でゆっくり時間稼ぎの経営者が払拭されて、タイムリーで積極的な戦略によって世界の動きをリードできるようになってもらいたいものです。