「ニッチもサッチもいかない多様性」 なんのこっちゃ?
要するに、世の中が多様化しすぎたために、それを維持するためのコストが高くなってきているのではないかということです。
多様性の時代と言ったのはもう何十年も前のこと。でも本当に現代は、多様性が広がりすぎて何がなんだか分からない世界になっています。
80年代に日本の規格のビデオが世界を席巻した時、メディアと呼ばれたビデオテープの規格はVHSやベータとして世界中で勢力を二分していました。
2つならアメリカの政党みたいに比較しやすいです。日本は政党が多すぎてどんぐりの背比べになりがちです。
とにかくメディア戦争と呼べるぐらい、日本発祥の工業規格が世界中でしのぎを削っていた時代があったのです。
その前にはカセットテープ、その後にはCDや光ディスク、DVDなど、メディアを牛耳った企業が世界を席巻する時代が続きました。
メディアとは今では記録媒体として理解されていますが、本来はもっと宗教的で本質的な意味を持っていました。
その前はカセットテープでしょうか? 昔は開発の速度がゆっくりしていましたから、10年20年単位で技術が入れ替わっていましたが、80年代ぐらいから加速度的に開発速度が速くなってきて、DVDが出てからはメディアを創出する価値が相対的に低くなってしまいました。
以前がニッチという言葉が頻繁に使われましたが、ニッチ狙いが度を過ぎまして、最近はニッチと言えるほど隙間がないぐらいに技術が広範囲に広がってしまい、新しい隙間を狙うのが困難になっています。
画像転送の技術や暗号化の技術など、少しずつ異なった優位性を持つ技術がひしめき合う時代になってしまいました。
プログラミング言語も次々と誕生し、様々な用途でそれぞれ特化した言語が普及していて、どの言語がメジャーなのか、初心者が今から学ぶなら何が良いかという質問に容易に応えられる状況ではなくなっています。
技術や社会が同じ方向に向かっていた時代が終わって、多様化が野放しになってしまっているのです。
これまでのように、何でもランキングで1位から10位まで並べるといった簡単な比較は意味がなくなって、用途、目的、趣味等によって多様なランキングが論じられるようになったということでしょう。
それはそれで単一化された価値観より、社会が進んだということなのかもしれませんが、単純に社会を一つの論点で論ずることに意味がなくなっています。
そろそろ多様化した社会の整理を考えなければならない時期が来ているのではないでしょうか?